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2011年2月6日礼拝メッセージ
『肉によってさばくな』(新約聖書 ヨハネの福音書 8:12〜24)

『「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 8:12)


パリサイ人、律法学者とのやり取りが続く中、イエス様はこう言われました。この中で、いのちの光とは「永遠のいのち」を意味しますが、聖書の中で「永遠のいのち」は二つの意味を持ちます。一つは「救い」で、もう一つは「神との信頼関係」です。この箇所では両方の意味を含んでいますが、箇所によっては、どちらかの意味に限定して使われています。次の箇所は、「救い」を意味している箇所です。


『まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じるものは永遠のいのちを持ちます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:47)

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:16)



では、次の箇所における「永遠のいのち」とは何でしょうか。


『神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求めるものには、永遠のいのちを与え、…』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:6,7)


ここで「永遠のいのち」を「救い」と解釈すると、神の救いが私たちの行ないに対する報いであると読めてしまいます。しかし、救いは信じる者への神の一方的な恵みですから、矛盾が生じるのです。ここでの「永遠のいのち」は、「神との信頼関係」と解釈すると意味が通ります。ではなぜ、「永遠のいのち」は「信頼関係」を意味するのでしょうか。


神が人を造った目的は、親しく交わり、信頼関係を築くことでした。しかし、アダムとエバの罪以来、人は生まれながらに神と分離された状態になってしまいました。これを霊的に死んだ状態と言います。そこで、分断された神との関係を回復するために、イエス様が人となって来られ、十字架にかかって私たちの代わりに罪(神を信じてこなかった罪)を背負われました。このことで、イエス様を信じる者の心に再び神が入ってこられ、交わりが回復されたのです。


ただ、交わりが回復されても、それは神とその人との関係がスタートしたというだけで、神の目的の半分でしかありません。そこからさらに深い信頼関係を持つに至ることが、神の与えるもう一つの永遠のいのちなのです。


『しかし今は、罪から解放された神の奴隷となり、聖潔に至る身を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:22,23)


この箇所で「永遠のいのち」が2回出てきますが、最初の「永遠のいのち」は「信頼関係」を意味し、後の「永遠のいのち」は「救い」を意味しています。では、神との信頼関係はどのように築かれるのでしょうか。それは、御言葉を行なうことからスタートします。御言葉を行なおうとするとき、私たちはどうしても自分の罪に気づかされます。その時、神の前に罪を認め、悔い改めることを通し、神の愛に触れます。そのように、悔い改め、神に助けを求める中で、神との関係が深まるのです。


第2の永遠のいのち、神との信頼関係を築く上でも、妨げとなるのが罪です。神を信じてこなかった罪とは違います。私たちはもうその罪には問われることはなく、第1の永遠のいのちである「救い」を取り消されることは決してないのですから安心して、信頼関係を妨げる罪と向き合っていきましょう。キーワードはイエス様の言葉にあります。


『あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 8:15)


「肉によって」の部分は欄外に「人間的判断で」と補足されています。人の判断基準は行いです。自分の価値は行いにあるという間違った信仰、これが人の苦しみの原因です。このため、人はたがいに比べ、嫉妬し、さばくのです。悪いことが起きると、自分の行ないが悪かった罰だととっさに結びつけて考えるのも、行ないで価値を判断している証拠です。これがあらゆる罪の根であり、すべての人が持っています。いくら見えるところは良いことをしていても、罪の根がある限り、人は変わりません。私たちはこの罪、間違った考え方と戦う必要があります。


自分の価値は行いにあるという考え方と戦う最も良い方法は、「さばかない」ことです。さばくことは、行いに価値があると認めていることになります。さばけばさばくほどその考え方を後押しし、自分をその物差しで見て、つらくなるのです。だから主は「さばくな」と言われるのです。イエス様は弟子たちが頑張ったからといって、その行いを褒めることはされませんでした。同様に、私たちが悪い行いをしたからといって、それだから私たちをダメな人だとも言われません。私たちは良い者として神に造られたからです。それでも罪に気づかせようとするのは、私たちを罰するためではなく、苦しみの原因である誤った考え方から解放するためなのです。


神の最も大切な戒めは、神を愛し、人を愛することです。愛するとは、さばかないでゆるすことです。その戒めを行なおうとするとき、私たちはどうしてもできない自分にぶつかります。それが私たちの罪であり、重い病なのです。自分がどうしようもない病人であると自覚する人ほど、神に助けを求めます。神の目的はそこにあります。病を自覚するたびに神のもとへ行く病人を神は癒し、私たちはそのたびに神の愛を知り、神と私たちの間には、いつしか深い信頼関係が築かれていきます。