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2011年1月30日礼拝メッセージ
『裁いてはいけない訳』(新約聖書 ヨハネの福音書 8:1〜11)

クリスチャンになっても、私たちのうちには、「行いに対して報いがある」というこの世の物差しがこびりつき、聖書の理解を妨げています。良い行いには賞賛が、悪い行いには罰があると、当然のように考え、神が自分にもそのようにされると考えてしまうのです。イエス様の十字架についても、父なる神が人の悪行に怒り、イエス様がその怒りを鎮めるために人の身代りになって十字架にかかったのだという間違った考え方をしてしまう場合があります。この考え方は、三位一体の神であるという観点からも矛盾しているだけでなく、神の思いを全く誤解しています。


そもそも私たちが救われたのは、良い行いをしたからではありません。ただ一方的な神の恵みです。ですから、悪い行いによって救いが取り消されることはありません。また、すべての人はすでに罰を受けています。それは肉体が必ず死ぬということと、まだ神を信じていない人は、神と引き離されて霊的に死んでいる状態だからです。ですから、それ以上の罰は必要ありません。そして何よりも、神が罪を問題にされるのは、罰するためではなく、赦すため、取り除くためだからです。このことを理解するためには、人が造られた目的を理解する必要があります。


神が人を造られた目的は、「愛しなさい」という戒めに集約されています。神と人が愛によって関わりあうことです。礼拝、奉仕、良い行い等が神を愛している証ではありません。神が言われる愛とは、見返りを期待しない信頼関係です。それが恐れを締め出すのです。この関係を築くのを妨げるのが罪です。罪とは、神よりも見えるものに頼ることです。クリスチャンであっても、人から「あなたが嫌いだ」と言われれば、いくら御言葉に「神はあなたを愛している」とあっても、神の言葉よりも人の悪口を信じて落ち込むのではないでしょうか。


神を信じて救われたはずなのに、なぜ神を信頼できないのでしょうか。私たちは、イエス様を救い主として信じ、それまで断絶していた神との交わりが回復し、神が心に住まわれるようになりました。それが第1の恵みです。しかし、神が心に住まわれていても、あいさつ程度の交わりにとどまり、深い交わり、信頼関係がまだできていないのです。罪が邪魔をしているからです。ここで第2の恵みが必要になります。今回の箇所を通じ、罪と第2の恵みの関係を明らかにしていきます。


姦淫の場で捕えられた女性を、人々は律法にしたがって石打ちで殺すべきだと言いたてます。それに対し、イエス様は「罪のない人が石を投げなさい」と言われ、人々は年長者から去っていき、誰も残りませんでした。イエス様は女性に、「わたしもあなたを罪に定めない。」と語り、励まされます。このエピソードを通し、神が語っておられるのは、さばいてはいけないということです。なぜさばいてはいけないのか、詳しく見ていきましょう。


1.さばく資格がない

「罪のない者が投げなさい」と言われ、誰も投げる者はいませんでした。私たちはみな、自分に罪があると知っています。良いことが分かっていてもそれを選択できない罪の中に閉じ込められているのです。


2.サタンの罠

人を憎み、さばくことが、最も心を辛くさせるものです。なぜなら、さばいていると神に心を向けられないからです。

『もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 2:10,11)


3.イエス様はさばかず、赦された

神は、罪をさばくものとは考えておらず、赦し、取り除くものと考えておられます。どうやって罪を取り除くか、それは、人が罪を悔い改め、それを赦すことを通してです。赦された時、人は神に愛されていることが分かり、信頼が生まれるのです。この信頼を築くために、神は人に罪深さを教えます。

『兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、誰でも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:15)


この御言葉に照らされれば、私たちはみな人殺しです。人を憎んでも、実際に殺したりなんかしないから、自分は人を殺した人たちよりもマシな人間だと私たちは思うでしょう。しかし、神から見れば、みな同じなのです。そして、ここに「永遠のいのち」という言葉が出てきます。人を憎んだら永遠のいのちを剥奪されると考えるのは間違いです。永遠のいのちは2つの意味を持っています。一つは神を信じて与えられた救いです。もう一つが、神との信頼関係です。二つを見分けるポイントは、救いという意味で書かれているときは、現在のこととして書かれ、信頼という意味で書かれているときは、将来のこととして書かれているということです。つまり、この御言葉は、人を憎んでいると、神との信頼関係が築けないと言っているのです。


『私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:13)


『・・・私たちは真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:20,21)


ヨハネはこの手紙を書いた目的を明確に書いています。ここでの「永遠のいのち」は救いを意味しています。信じているあなたがたはもう救われていて、大丈夫なのだから、安心して罪を認めなさいと彼は言いたいのです。偶像とは、神に信頼しないことです。神よりも人の言葉を気にしていることです。


私たちは、一つ目の恵み、救いとしての永遠のいのちをいただいています。それによって、神が私たちのうちに住まわれ、私たちもまた神のいのちに入れられています。それは何によっても取り消されることはありません。しかし、それは神との関係の入り口であり、まだ神との信頼関係はできていません。他の箇所に、「救いを達成してください」という御言葉があります。これは言い換えれば、「神との信頼関係を築きなさい」となります。つまり、神は私たちにこう語りかけておられるのです。もうあなたは救われていて、救いは取り消されないから、安心して罪(偶像礼拝)を認め、愛されていることを知り、わたしを信頼しなさい。多く赦されるほど、多く愛するようになるとあります。私たちが変わる方法はただ一つ、罪に気づき、神を信頼するようになることです。