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2011年1月23日礼拝メッセージ
『信じることと、信じないこと』(新約聖書 ヨハネの福音書 7:25〜53)

エルサレムでの仮庵の祭りの中、宮で教えておられたイエス様のことばに驚きながら、群衆は大工の息子といったうわべだけを見て判断し、信じることができないでいました。そんな前回の場面からの続きです。ご自分が神から遣わされたというイエス様のことばも、彼らにとっては神を侮辱しているとしか聞こえず、自分たちが出身を知っているこの人がキリストであるわけがないと、イエス様を信じることができません。人は神を理解することなどできません。その言葉を信じるしかありません。信じなさいと言われるイエス様と、信じることができない群衆、両者はいつまでも平行線です。


『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。』(新約聖書 ヨハネの福音書 7:37〜39)


「生ける水の川が流れ出る」とは、魂が神とつながることを意味し、具体的には次の3つのことがあります。


1.悔い改めに導く

生ける水は罪を洗い流すものです。イエス様は罪を罰するのではなく、赦すために来られました。ですから、安心して罪を認めれば、赦していただけるのです。


2.平安を与える

生ける水はいのちを生かします。イエス様を信じる前の私たちは、いつも死やその他の問題を恐れ、見える者にしがみついて、不安がありました。イエス様を信じた後も、その古い習慣から抜け切れてはいませんが、それでも、死の問題を解決していただき、罪をゆるされ、それまで得られなかった平安、希望がわきあがるようになったのです。


3.力を与える

水が集まると、川になり、川には押し流す力があります。イエス様が天に昇られた後の弟子たちは、イエス様のことを伝えたくても力がありませんでした。しかし、聖霊のバプテスマを受けて、力を与えられ、力強く証しすることができるようになりました。私たちが、神のために何かをする力となるのです。


群衆の中で、イエス様について意見が対立しました。先にも触れたとおり、神のことは人には理解できないので、信じるしかありません。信じることができないのは、自分の知識の中に神を押し込めて理解しようとするからです。信じること、信じないことの対立は、罪の実態を浮き彫りにします。


『罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。 』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:4)


罪とは律法(ここでは神のことば)に逆らうことです。神の律法とは、「(神と人を)愛する」の一言に集約されます。ですから、罪とは愛せないことです。ここで、愛する意味を正しく理解しておく必要があります。神を愛するということは、ふさわしい行いをすることだと人は考えます。パリサイ人たちもそう考え、良い行いをしていました。しかし、愛することは、外側の行ないではなく、心のすべてを神に向けることです。パリサイ人たちは、行いは立派でも、心は人に向いていました。神を愛するが故の行ないではなく、自分が人から立派だと賞賛されるための行ないだったのです。


心のすべてを神に向けるとはどういうことでしょうか。愛する関係とは、心地の良いもののはずです。しかし、人間関係おいて、私たちは愛する関係をギブ&テイクと考えています。これだけのことをしてあげたのだから、相手にもこうしてほしいと見返りを求めているのです。そのために不安が付きまといます。本来、心地よい関係とは、どこまで相手を信頼できるかにかかっています。


『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。 』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:18)


神のことばを信頼するがゆえに、安心して御言葉を行なうことができるのであって、逆ではありません。そして、信頼しないことが罪なのです。私たちも、人からどんなに良いものをもらっても、相手から信用されなければ悲しいものです。信頼することが、本当の心地よい関係を作ります。


では、どのように信頼を育てることができるのでしょうか。それは、自分の中の罪に気づくことです。罪(不信仰)が信頼を妨げます。ですから、神のことばを疑う自分と戦い、神に助けを求めましょう。不信仰の罪は、道徳的、倫理的罪と比べて罪責感がないので気づきにくいのですが、すべての悪い行いの原因となっているのが不信仰です。心の中でつぶやきが出たら、神のことばを疑っています。行いは私たちの信仰、あるいは不信仰の結果なので、行いを良くしようとするのではなく、自分の内側が神のことばを信じているのかどうかを見ましょう。