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2011年1月16日礼拝メッセージ
『うわべでさばくな』
(新約聖書 ヨハネの福音書 7:1〜24)
『その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れたところで事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。」 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。』(新約聖書 ヨハネの福音書 7:1〜5)


イエス様の兄弟たちは、「自分をもっと積極的に世に示せ」という意味のことを言っています。それは、彼らがイエス様を救い主として信じておらず、イエス様が世の中において名声を得ることを願っていたからです。兄弟たちは、イエス様のことを自分たちの兄弟であるといううわべだけで見ていたため、本質を見ることができませんでした。私たちも、近しい人ほどうわべで見ているものです。この後の箇所からも、人々がイエス様をうわべで見るために真実を見ることのできない様子が描かれています。


『ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか。」と言って、イエスを捜していた。そして群衆の間には、イエスについて、いろいろと ひそひそ話がされていた。「良い人だ。」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ。」と言う者もいた。 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。 しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。』(新約聖書 ヨハネの福音書 7:11〜15)


人々は、イエス様のことをひそかに噂していました。公然と話さなかったのは、祭司やパリサイ人たちを恐れたからです。人々がこのように人目を気にして行動していたのは、人からよく思われたかったからです。これは私たちも同じです。  宮で教え始めたイエス様のことを、人々は「この人は正規に学んでいないのに、どこから学問を得たのか」と驚きます。これもまた、イエス様をうわべで見ているために、肉の価値観が邪魔をして、イエス様が救い主であることが見えないためです。


『そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているかがわかります。自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。

群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか。」イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。─ただし、それはモーセから始まったのではなく、先祖たちからです。─それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」 』(新約聖書 ヨハネの福音書 7:16〜24)



人々の疑問に対し、イエス様は、ご自分が自分から語っているのではなく、神から出た教えであることを示し、そのことが真実かどうかは、自分の栄光を求めているか、それとも神の栄光を求めているかでわかると語られました。わかりやすく言えば、人の行動が真実であるかどうかは、見返りを期待しているかどうかでわかるということです。見返りを期待していると、腹を立てる、怒る、嫉妬する、落ち込む…といったことが起こります。これによって、私たちは自分が見返りを求めていたことに気づくことができます。


パリサイ人、律法学者たちは、聖書のことばそのものよりも、聖書のことばを独自に解釈し、規則を定めました。それを守れる者は優れており、神に愛されると判断し、規則を守る自分たちを誇っていました。その規定の一つに「安息日に仕事をしてはならない」がありますが、イエス様は安息日に人をいやしたので、彼らは怒ります。そのことに限らず、彼らの判断基準に真っ向から反対するイエス様に殺意を抱いていました。イエス様は、「うわべで人をさばくな」と言われました。うわべで人をさばくから、すべての問題が起こります。聖書のことばは、人をさばくための基準ではなく、愛するための基準です。ですから、私たちのすべきことは「愛する」ということであり、「さばく」ことではありません。さばくのは、うわべでものを見るからです。


イエス様をうわべで見た人たちはみなつまずきました。うわべの状態、出来事で物事の善悪、価値を判断するとつまずきます。その中には見えるところの罪を数えてその人を価値のない者と判断したり、自分を誰かよりは優っていると考えたりすることも含まれます。こういったことがいかにむなしく、無意味なものかをさらに掘り下げてみていきましょう。


聖書で言う罪とは、次の二つに分類されます。うわべで見ることの愚かさを知るために、二つの罪の意味を正しく理解することが欠かせません。


◆イエス様を救い主として信じないことの罪(魂における)

アダムとエバが罪を犯したことにより、人は生まれながらに神と断絶した状態なので、すべての人がこの罪を持って生まれました。生まれつき、イエスを救い主だとあがめているものは、一人もいません。

『…キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:1)

この罪とは、イエスを救い主として信じない罪です。イエス様を信じた者は、この罪にはもはや問われず、救いが取り消されることは決してありません。


◆御言葉に従わない思いや行為の罪(肉における)

この罪はイエス様を信じた者もすべてが犯すもので、御言葉に従わなかったことを悔い改める必要があります。この罪の悔い改めによって人は神の愛を知り、変えられていきます。


イエス様を信じた人は、魂は救われ、神のいのちをいただき、完全にされています。ですから、罪人ではなく、罪に定められることももうありません。しかし、魂が入っている土の器は従わない罪という病気に侵されており、さまざまな状況の中で罪を犯してしまいます。次の御言葉は、私たちは魂が完全なのだから、土の器もそれにふさわしく、完全を目指して進む必要があるということを言っているのです。


『私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追及しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。(中略)すなわち、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:12〜15)


ここに「成人である者」とありますが、原語では「完全である者」となっています。大人という意味ではなく、イエス様を信じ、魂を完全にされた者に対する言葉です。


『律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。』(新約聖書 ヤコブの手紙 2:10)



御言葉に従わない罪について、犯さない者は一人もいません。人によって罪の多少はあるでしょう。しかし、罪が多ければより罪深く、少なければ優れているというものではありません。罪の多少は、環境の違いのせいとも言えます。法を犯したことのない人も、ある立場に追い込まれれば、法を犯すこともあるでしょう。神から見れば、多少にかかわらず罪という実がなっている以上、同じ根を持っているのであって、その根が問題なのです。そのことをこの御言葉は言っています。すべての人が罪の根を持っているので、外に現れた大小を比べることは無意味なのです。


私たちは、罪を犯せば罰が当たると考えますが、それは勘違いです。罪に対する罰はただ一つ、死です。そして、イエス様はその罰を背負ってくださいました。もう私たちに罰は必要ないからです。私たちに必要なのは、土の器が侵されている罪という病の癒しです。イザヤ書53章には、イエス様が私たちの病を背負われたと書かれています。罪と病を同義としているのです。神は悔い改めによって私たちの病を癒してくださいます。「もう罰はないから、安心して罪を認めなさい。そうすれば、わたしがあなたがたをいやそう。」これが神の目的です。罪ゆるされた時、私たちは神の愛を知ります。そして、多くゆるされた者ほど、多く愛するようになると御言葉にもある通り、神の愛に触れるほどに、私たちは新しく変えられていくのです。


腹が立ったり、怒りがこみ上げたり、落ち込んだりした時は、自分が見返りを求め、うわべで人を見て、愛していないためだということに気づき、悔い改めていきましょう。