ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2011年1月9日礼拝メッセージ
『つぶやきとつまずき』(新約聖書 ヨハネの福音書 6章41〜71節)

『ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下ってきたパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた。彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下ってきた。』というのか。」イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:41〜43)


今回の箇所では、イエス様について来ていたユダヤ人たちがイエス様の言葉を聞いてつぶやき、さらにはつまずく様子が描かれています。彼らがイエス様のことでつぶやいたのは、イエス様を「ヨセフの子」といったうわべで捉えようとしたからです。私たちがつぶやくのも、人の価値をうわべにあるとして判断するからです。これが、すべての問題の原因です。イエス様は、つぶやくのはやめなさいと言われましたが、これは「人をうわべで見るのはやめなさい」というメッセージです。

では神は私たちをどのように見ておられるのでしょうか。


1.外側のものは借り物

私たちが人の価値を判断するときにみる「うわべ」とは、人種、貧富、能力、美貌、障がい等です。しかし、これらは良く調べれば、その人の功績ではなく、それぞれの訓練のために神が与えたものであり、誇ることなどできないものです。神から見ればそれらのものはその人の価値ではありません。私たちはガンダムに乗っているようなもので、割り当てられたガンダムが私たちの価値ではなく、内側のいのちに価値があるのです。


2.報酬(価値)は行いに依存しない

パリサイ人や律法学者たちは、能力があったので、立派な行いができ、それによって救われるのだと教え、誇りました。金持ちは行いが良いから金持ちになったのであり、救われるというのが当時の常識でした。イエス様は、行ない=価値という考え方と徹底的に戦われたのです。イエス様が語られたたとえで、ぶどう園の主人が8時間働いた人と1時間働いた人、それぞれに同じ報酬を与えた話があります。パリサイ人たちはもとより、行ない=価値という社会に生きる私たちにとっても、あり得ない話でしょう。しかし、神は私たちの行ないによって報酬を与えず、また、救いも与えないのです。


3.大切なのは信仰

信じることについては、どんな境遇の人にも平等に機会が与えられています。私たちの土の器の影響を受けません。だからこそ、私たちに責任があります。神が見るのは私たちが神を信じているかどうか、それだけです。救いは行いにかかわらず、信じる者に与えられるのです。与えられている境遇は、すべて神を信頼する訓練に用いられるのであって、価値をはかるためのものではありません。しかも、それらは地上でのことだけであって、地上の人生は通過点にすぎません。


うわべで見ないとは、さばかない(ダメな者と認定しない)ことです。外側のものには何の価値もありません。真の価値は内側にある神のいのちにあるのです。


『ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。』(新約聖書 コリント人への手紙 第二 5:16)


つぎに、つまずきについて見ていきましょう。つぶやきが発展して、行動を伴ったものがつまずきです。教会でも「つまずいた(あるいは傷ついた)」と言って出ていく人がいます。つまずく、傷つくと言った言葉は、その人を被害者のように見せ、同情を誘います。しかし、つまずきの原因を聖書は明確に示しています。


『…彼らがつまずくのは、御言葉に従わないからです…』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:8)



御言葉の全体は、「愛する」という一言に集約されます。神が言われる愛とは、見返りを期待せず、条件を付けず、さばかないことです。私たちの愛は、見返りを期待し、条件を付け、見返りが手に入らないと腹を立て、条件に合わないとさばきます。それは愛ではなく、ただ自分のために相手を利用しているにすぎないのです。つまり、つまずくのは、「愛しなさい」という神のことばに従えないということなのです。神の愛について書かれた御言葉を見てみましょう。


『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:4〜7)


私たちは互いにひとつのいのちでつながっています。自分で自分の体を痛めつけることはしません。むしろ、弱っているところをいたわり、助けます。私たちも互いに利用するのではなく、助けることを神は教えておられます。私たちの問題の原因は「愛せない」ことだとも言えます。もちろん、自分の力ではできません。相手に腹を立ててしまった時、相手を愛せず、自分のために利用していたことに気づき、悔い改め、神に助けを求め、愛することを求めていく時、問題は解決していきます。