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2011年1月2日新年礼拝より
『人の問題とその解決』
(旧約聖書 創世記 1〜3章)
『…神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常に良かった。』(旧約聖書 創世記 1:31)


神がお造りになったものには当然、人も含まれます。私たちはみな、神に非常に良い者として造られました。しかし私たちは自分をそのように見ることができず、良い者として行動できず、過ちを犯します。私たちが自分を良い者として見るのを邪魔するものがあるのです。


『神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのままに食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」』(旧約聖書 創世記 2:16,17)


神の命令にもかかわらず、アダムとエバは善悪の知識の木から取って食べました。この行為が私たちすべてにもたらしたもの、それが良い者として生きることができなくなった原因であり、すべての問題の根本です。実を食べた時から、彼らは自分を恥ずかしいと思い、自分の裸をおおい、神の目から自分を隠しました。それは、良い者として作られた自分を駄目だと判断したからです。善悪を知ると言うと良いことのように聞こえますが、この善悪とは、神の善悪を指すのではなく、本来良い者である人に対して、人が独自に善し悪しの判断をすることを意味しています。神はそれをしてはならないと言われたのです。


それ以来、私たちはみな、善悪の知識をもって人や自分を○×で判断しています。善悪の知識とは言い換えれば、「私はダメ」、「あなたはダメ」を意味する言葉です。神は善悪の知識の実を食べると死ぬと言われましたが、それは、駄目と判断する言葉を食べればつらくなることを意味します。その言葉は、人のうわべを比較して価値を判断したものです。私たちは日常的にこのように自分や他人を判断し、駄目だという言葉を食べているのです。私たちは軽い気持ちでそれをしているかもしれませんが、そのことがとんでもないつらさをもたらしているのです。良い者を駄目だと判断したことがどのようなつらさをもたらしたのか、具体的に見ていきましょう。


1.見えるものにすがるしかなくなる

アダムとエバは、いちじくの葉で腰の覆いを作りました。いちじくの葉など、それまでは見向きもしなかったつまらないものです。見えるものはすべて、いちじくの葉のように頼りにならないものです。しかし、そういったものに私たちはすがらざるを得ず、いつも不安なのです。


2.周りを恐れて生きるようになる

次に、彼らは恐れて隠れました。自分が駄目だと判断したので、そのままの自分の姿をさらすことができないのです。私たちも、常に周りの目が気になり、自分のありのままが知られたら、嫌われてしまうと恐れるのです。


3.言い訳やウソをつかなければいけなくなる

神の命令に背いたことを、アダムはエバのせいにし、エバは蛇のせいにします。自分は悪くないと言い訳をしているのです。私たちも人から良く思われたい、愛されたいゆえに、言い訳やウソを言うのではないでしょうか。


人を駄目だと判断することを一言でいえば、さばくことです。イエス様は「さばいてはならない。さばかれないためである」と言われました。さばくことは比較することです。比較することから罪が生まれます。人類最初の殺人も、カインが弟アベルを神が評価したことで、自分と弟を比較したことからつらくなり、それが弟に対する憎しみに発展し、過ちを犯すにいたったのです。


私たちがつらくなるのは、さばいている(比較している)からです。私たちがさばくのは、人の言葉で心を満たそうとしているからです。それは、人から評価されることで自分が価値ある者になりたいからです。しかし、最初に確認したように、私たちはもともと良い者です。人からの評価で後から価値が変わることはありません。ですから、人の言葉を食べることは私たちの益にならないどころか無用なつらさをもたらすだけなのです。


私たちに必要なのは、神の愛を食べる習慣です。そのためにはまず、つらくなったときにさばいている自分に気づき、さばくのをやめることです。そして、神に助けを求め、祈りましょう。そして、礼拝、御言葉、祈り等を通して、神の言葉を覚えていくのです。神は地上においては少しずつ、やがて天においては完全に、私たちを本来あるべき姿にしてくださいます。