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2010年12月12日 礼拝メッセージ
『5つのパンと2匹の魚』
(新約聖書 ヨハネの福音書 6章1節〜21節)

『イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:5〜9)

今回の箇所から、信仰でみるとはどういうことかを次の3つのポイントから学ぶことができます。


1.あきらめない

ピリポはお金を勘定して無理だと判断し、アンデレは手元にあるパンと魚を見て無理だと判断しました。私たちも彼らと同様、見えるものを見てダメだと結論づけ、あきらめます。しかし、神から見たらできるのです。


2.結果を手にする

ヘブル書11章に昔の信仰の人たちについて書かれています。彼らは望んでいたものを手にしなかったのに、はるかにそれを見て喜んでいたとあります。彼らは心の目で見て、もう得たと信じ、実際に得たかのように喜んでいたのです。私たちは実際に手にしてはじめて安心できると思うかもしれませんが、肉の目で見る安心というのは、失うことへの不安が常に伴います。しかし、心の目で見るなら、そのような不安はおこらず、失われない平安があるのです。


3.肉のメガネで見ない

私たちは皆、肉のメガネをかけてものを見ています。信仰で見るためには、このメガネをはずさなければなりませんが、すぐにはずすことができるわけではありませんので、練習をする必要があります。肉のメガネをかけていると、必ず怒り(あるいは嫉妬、ねたみ、争い等)が発生します。これはさばく行為の現れです。自分が怒っていることに気付いた時、すぐに悔い改めてやめること、これが肉のメガネをはずす練習になります

肉のメガネをかけているということは、いつも人からよく思われることを考え、それによって得る人からの言葉を食べているということです。しかし、人は神の言葉を心の食事として食べられるように造られています。私たちは、食事を得るためには、それだけの行いが必要だと思い込んでいますが、神の愛に触れたなら、私たちの行いは変わっていきます。ですから、行いを頑張る必要はないのです。


5000人以上の人々に食事を与えた出来事の後、イエス様は弟子たちに船で湖を渡らせます。

『湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:18〜21)


恐れる弟子たちの姿は、私たちの姿でもあります。肉のメガネをかけていると、恐れがいつもあり、見えるものにしがみつこうとします。そんな私たちに、イエス様は語りかけておられます。「わたしだ。恐れることはない。」


目に見える安心は必ず失います。肉のメガネをはずし、神のことばを求めましょう。恐れから解放され、失うことのない平安をいただくことができます。