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2010年12月5日 礼拝メッセージ
『あなたがたはわたしに近づいてこない』
(新約聖書 ヨハネの福音書 5章18節〜47節)

ユダヤ人たちは、イエス様が安息日を破り、ご自分を神としたことで、ますます敵対し、イエス様を殺そうとし始めます。そんな彼らに対して、彼らのものの見方ゆえに神が見えていないことを指摘されました。


イエス様はまず子なる神であるご自分と父なる神との関係について語られます。イエス様は、自分の思うままに行動するのではなく、父なる神の御心を行うという役割であると言われます。そして、父と子と聖霊、三位一体と言われる神の中にあるのは、愛の交わりです。この関係の中に私たちを招いておられます。


『父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思うものにいのちを与えます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 5:21)


私たちは神に生かされている者です。私たちが生きるのも死ぬのも、神に主権があります。人は救われるために何もなし得ません。救いは神によるもので、一方的に受ける恵みです。どんな立派な行いによっても得られず、イエス・キリストを信じることでしか得られません。しかし、私たちは救いをも行いに対する報酬のように見てしまい、神の無条件の愛を疑い、受け取ろうとしないのです。


『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 5:24)

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の声を聞く時がきます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 5:25)


死人とは神を信じない者のことです。しかし、御言葉を聞き、イエス様を救い主として信じるなら、永遠のいのちが与えられます。


『善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 5:29)


この聖句も誤解されがちですが、神の前に善を行なうとは、善い行いをすることではありません。人がする善は、自分のためであり、人の歓心を買うためのものであり、それはどんなに立派な行いであろうと、神の前には悪なのです。つまり、悪とは自分のために生きることを指します。善とは神を信じるがゆえにできるものであり、神に栄光を返すものです。


『わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 5:30)


人は自分の好きなことをすることが自由だと思っています。しかし、神から見れば、それは不自由なことです。神の自由とは、神の御心を行なうことです。神の御心とは、一言で言えば愛することです。私たちは、御心を行ないたくてもできないと聖書にあります。自分の欲望に振り回されるばかりで、愛することができない私たちは不自由なのです。しかし、神が私たちの罪を解決してくださり、神によって愛することができるようにしてくださいました。愛するとき、私たちの心に真の平安、喜びが与えられます。それこそが自由なのです。


イエス様はさらに、ユダヤ人の間違ったものの見方を指摘されます。それは、私たちのものの見方なのですが、人を行ないによって判断する見方です。ユダヤ人たちはイエス様のことを神ご自身が御言葉で示してきたのに、信じようとしませんでした。そんな彼らにイエス様は、神ではなく、誰か立派な人の推薦でもあれば、その人を信じるのではないか?と指摘しているのです。人は自分の価値を人からの証言に求めますが、神は人の証言など必要としません。しかし、ユダヤ人はイエス様が立派な人物からの推薦がなかったので受け入れられなかったのです。互いの栄誉を求めあうのは私たちの姿そのものではないでしょうか。


こういったものの見方を律法主義と言いますが、この律法のメガネをかけている限り、いくら聖書を読んだところで、御言葉は知識にしかならず、神に近づくことはできません。私たちはすでに私たちが最も欲しているもの、永遠のいのちという宝を神からいただいているのに、律法のメガネはそれを見えなくしているのです。


『かえって、今日まで、モーセの書が朗読される時はいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:15,16)


心のおおいが取り除かれると、神の愛が見えるようになります。神は聖書の文字の中におられるのではなく、私たちの心の中におられることがわかります。私たちが変えられるのが、自分の努力ではないことがわかります。


おおいが取り除かれているかどうかを示す判断基準があります。それは、人をさばかなくなるということです。おおいが取り除かれると、私たちは自分の罪深さが見え、それとともに、その罪の罰を私たちの代わりに負ってくださったイエス様の十字架の愛が見えるのです。私たちが罪人で、罰を負わなければならなかったのに、何のお咎めもなしで無条件に赦されたのです。それを知ったなら、私たちはもはや人をさばくことなどできません。神は私たちを行ないによってさばくことをせず、すべて帳消しにし、愛してくださっているのです。そのことを知ったら、私たちも自分や人の価値を行ないによって判断することをやめるようになります。


すでに与えられている宝を見えなくする律法のメガネ、これが私たちのすべての問題の原因です。このメガネをイエス様は私たちの心から取り除き、真の自由を与えようとしてくださっています。私たちもそれを求め、イエス様に近づいていきましょう。