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2010年11月28日 礼拝メッセージ
『ベテスダの池』
(新約聖書 ヨハネの福音書 5章1節〜18節)

ベテスダの池には、水面が動いたときに最初に入った人が癒されるという言い伝えがあり、多くの人たちがそこに入ろうとして待っていました。ここに登場する男性は、自力で入ることができないため、38年もの間、誰かが入れてくれるのを待ち続けていました。そこにイエス様が来られ、彼を癒されます。このエピソードから、次の3つのことを学ぶことができます。


1.幸せは待っていても来ない

男性は、池に入ることさえできれば、病という自分の問題は解決され、幸せになれると思って待っていました。誰もが、これさえ手に入れば、この問題さえ解決されれば幸せになると思い、何かを待っていますが、それは幻想です。幸せを運ぶ青い鳥を探す話は有名ですが、私たちは、誰もがそのような青い鳥を探して生きている状態です。


2.答えはイエス様にある

男性は池に答えがあると思っていましたが、実際、彼を助けたのはイエス様でした。私たちは見えるものに答えがあると思い、求め、それを得たとしても、幸せを感じるのは一時のことで、すぐに失います。私たちが求めている、失うことのない幸せの答えはイエス様にあります。イエス様はどこにおられるのでしょうか。私たちの中におられるのです。神の国はあなたがたの中にあるとイエス様は言われました。私たちはすでに宝をいただいているのですが、それに気づいていないのです。どうすれば宝に気づくのでしょうか。それは、自分の罪深さに気づき、神に求め、赦されることで、神の愛を体験することによります。青い鳥は、外にいるのではなく、もうすでに私たちの心の中に与えられているのです。


3.信じることの大切さ

イエス様は男性に「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われました。38年も病に伏せていた人ですから、それを聞いて、自分が本当に歩けるのか、疑いや恐れが来てもおかしくありません。しかし、彼はイエス様が言われるなら、と信じて歩きました。私たちの問題は、神の言葉を知っていても、信じられないことです。むしろ、目に見える人の言葉で一喜一憂します。神ではなく見える人を信じているからです。これが不信仰です。私たちはすでに神の国という最高の宝をいただいています。しかし、信じて行動しなければ、せっかく与えられている宝を台無しにしているのです。宝に気づくことがカギです。気づくことで、私たちの生き方が変わります。


イエス様が男性をいやしたのが安息日だったことで、パリサイ人たちは騒ぎ始めます。その中で、イエス様は再び男性に会い、「もう罪を犯してはなりません」と言われましたが、これは、信仰で踏み出したのだから、もう後戻りして不信仰になってはいけないという意味です。


イエス様とパリサイ人たちは、何を争っていたのでしょうか。イエス様は、パリサイ人たちの間違ったものの考え方と対決していたのです。神様は十戒を与えられました。そのなかに安息日を守ることも含まれています。パリサイ人たちは、神の本来の意図を理解せず、それらの戒めに、自分たちの考えた規定を加え、自分たちの規定を守ること=神の戒めを守ること、最も価値あることと考え、実際は自分を誇るために用いていました。安息日についても、してよいこと、してはいけないことを細かく定め、その規定を守らなかったイエス様に憤慨したのです。パリサイ人たちは、どれだけ規定を守れるかという行いによって人の優劣を判断しました。私たちも見えるもの、行いによって、幸不幸、優劣を判断しています。その考え方こそが、私たちの苦しみの原因です。神の宝を見えなくするのは、まさにこの考え方です。


『…人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められるものは、ひとりもいないからです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2章16節)

『私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2章21節)


私たちは神の愛を誤解しています。神は行いに対して報いることはされません。奇蹟が起こること、癒されること、問題解決することで、神に愛されていると思い、それらが得られないと、愛されていないと思うのは、神の愛をわかっていないからです。神の愛は、罪を赦される体験を通してはじめてわかります。


『私はキリストとともに十字架に付けられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2章20節)


イエス様を信じることで、私たちは神に接ぎ木され、私ではなく、神が生きておられます。この恵みは私たちが何かをしたからではなく、一方的に与えられたものです。そのことに気づくことが、失われることのない平安への道です。