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2010年11月21日 礼拝メッセージ
『信仰で神の言葉を食べる』
(新約聖書 ヨハネの福音書 4章39節〜54節)

王室の役人が、死にかかっている息子の癒しを求めてイエス様のもとへ来ました。この箇所から、3つのことを学ぶことができます。


1.背伸びしなくてよい

私たちは、イエス様が指摘する通り、しるしと不思議を見なければ信じられないものです。しかし、イエス様はそんな私たちを駄目だと決めつけたりしないで、私たちと同じ目線に立ってくださる方です。ですから、私たちも、わからないことをわかったふりをしたり、出来ないことを出来ているふりをしたりする必要はありません。ありのままの姿で神の前に行けばよいのです。


2.とりなしの大切さ

イエス様に癒しを求めたのは、息子本人ではなく、父親でした。自分のことではなく、誰かのために祈り求めることをとりなしの祈りといいます。とりなしの祈りが大切な理由は次の3つです。


@罪から守る

私たちは、周りの人のために祈ることで、罪に対する抵抗力をつけることができます。それは、こういうわけです。罪を犯すのは、人の言葉を食べようとするからであり、人の言葉を手に入れようとする欲求の中で最も強い感情が、憎しみです。とりなしは見返りを求めない愛の行為であり、とりなしによって人を愛する行為をするほどに、憎しみを心に寄せ付けなくなります。ですから、人のために祈ることは、私たち自身のためにもなっているのです。


A神への信頼を育てる

とりなしは、人ではなく神を頼ることであり、とりなしの祈りを重ねるほどに、神にますます信頼するようになります。信頼が増すほどに、私たちの心に真の平安がきます。


B周りを変える

自分の力で相手を変えようとしても決して変わりません。しかし、とりなしの祈りをする中で、自分自身も神の愛に触れて変えられ、周りも神の愛に触れて変えられていきます。


3.先取りの信仰

父親は、「あなたの息子は直っています」と語られたイエス様の言葉を信じて、安心して帰って行きました。息子が直った姿を実際に見る前に、イエス様の言葉によって、息子が癒されたことを信じて安心したのです。神が私たちに与えたいのはこの信仰です。私たちは何によって平安を得ているでしょうか。神の言葉によって平安を得ているでしょうか。


『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11章1節)


神が与えた賜物である信仰、それは、まだ見ていないことを与えられたと確認する道具です。これを使って神の言葉を食べることを、神は望んでおられます。


『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11章6節)


神のことは信仰によってしか信じられず、神の言葉は信仰によってしか食べることはできません。ヘブル11章には、アブラハムやノアといった昔の信仰の人々について書かれていますが、その人たちについてこのように書かれています。


『これらの人々は皆、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11章13節)


彼らは、神からの約束を現実には見ませんでした。彼らが死んだ後に約束が実現したからです。祈ったことが実際に起きるか起きないか、私たちが見ることができるかできないかは、本当は大した問題ではないのです。それよりも、神が望んでおられるのは、昔の信仰の人々のように、現実に見る前に、神の言葉を食べて心のうちにその約束を喜び見ることなのです。神の言葉がなったと信じられたなら、心は喜び、真の平安が与えられます。