ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2010年11月14日 礼拝メッセージ
『心の食物』
(新約聖書 ヨハネの福音書 4章27節〜38節)

人の体が食物を必要とするように、心も食物が必要です。イエス様はここで、ご自分にとっての食物は、御心を行い、成し遂げることだと言われました。つまり、神のことばを行うことが、本来の人の心の食事であるということです。このことを理解するために、まず人の心の仕組みを見ていきましょう。


人の心は愛を必要としています。愛とは、関わりのことです。関わりの中で、心は言葉を食べて空腹を満たします。言葉のない無言の関わりであっても、人はそれを言葉に変換して食べるのです。言葉には、人の言葉と神のことばがありますが、人は生まれながらに神との関係が断たれているので、人の言葉しか食べてきませんでした。


では、私達が食べてきた人の言葉について詳しく見ていきましょう。人の言葉の食事メニューで最もおいしいのが褒められる言葉です。その次が同情する言葉で、最もまずいのが馬鹿にする言葉です。親は子を言葉によって育て、子は親の言葉を食べて育ちます。子にとっては褒められる言葉をもらえることが一番なのですが、現実にはなかなかそうはいきません。そこで、親からもらえる言葉を学習していきます。褒められる言葉も、同情する言葉ももらえなくて、まずい食事なら与えられることを学習すれば、まずい食事が与えられるように、つまり叱られたり馬鹿にされたりするような行動をとるのです。無視されるよりはましだからです。無視されるということはなんの食事も与えられないということですから、飢え死にします。飢え死にするよりは、まずい食事でももらえたほうがいいのです。さらに、食事を手に入れるためには何らかの富(行い、お金、力、物…)が必要になります。そのため、人は富を求めるのです。


しかし、最初に触れたように、私たちにとって本来とるべき食事は神のことばであり、人の言葉は偽物の代用品です。そして、次の3つの副作用が生じます。


1.富を得るほどに、それを失ったらどうしようという恐れが増し、もっと富を欲するようになります。人は一度獲得した地位を失うことに恐怖を覚えるのです。

2.常に人と比較して、自分が少しでも優位に立とうとするので、嫉妬、ねたみ、争い、傲慢が生じ、罪を生み出します。

3.人の食事を求めたら、やめられず、罪の奴隷となります。私たちは自由に行動していると思っているかもしれませんが、人の歓心を買えるようにしか行動できなくなっているのです。


私たちの心がつらさを感じるのは、人からの食事のこれらの副作用のためです。ここから抜け出すには食事を変えるしかありません。神が私たちに用意してくださった食事は、手に入れるための富は不要で、副作用もなく平安を与えます。


クリスチャンである私たちは、神との関係が回復され、神が用意された食事を食べることができるのに、依然として人の言葉を食べ続けていることに問題があります。これを肉に属するクリスチャンといいます。


『さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。』(新約聖書 コリント人への手紙 第一 3章1節〜3節)


神の言葉は乳と固い食物の二つに分けられます。乳は受け身で聞いていられる言葉ですが、固い食物は、実行を伴うもので、能動的に聞かなければならないものです。肉に属する人には、固い食物は無理です。しかし、神はこれを食べてほしいのです。
 

御言葉を知っているのと食べるのとは全く違います。食べるとは、実行することです。実行しようとすると、実行できない自分にぶつかります。神の狙いはそこにあります。私たちは御言葉を実行しようとして初めて、自分の中にある罪(世の心遣い、富の惑わし)に気づくのです。この罪を悔い改め、神に助けを求めるときに、私たちは神の愛を体験します。御言葉の実行に伴うこういった一連の体験の中で、私たちは最高の食事をすることができるのです。そして、自分が神という木に接ぎ木され、神のいのちによって生かされていることを知るのです。


固い食物とは、具体的には伝道することを指します。これは神の第一の戒めである「神を愛すること」「人を愛すること」の具体的行動です。いざ伝道しようとすれば、相手に何と思われるか、恐れる自分にぶつかるでしょう。自分の中の世の心遣いを発見したら、それを神に悔い改め、恐れる自分を差し出し、神に助けを求めましょう。その中で、私たちは神の力に頼る体験をします。それが、平安の義の実を結ばせるのです。