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2010年11月7日
生ける水と、渇く水
(新約聖書 ヨハネの福音書 4:1〜26)

イエス様は、サマリヤの女性に「水をください」と言って、コミュニケーションのきっかけを作りました。サマリヤの女は、ユダヤ人のイエス様が声をかけられたので、驚きました。なぜなら、サマリヤ人とユダヤ人とは犬猿の仲だったからです。イエス様は、人をうわべで判断されません。当時の人々は、ユダヤ人以外は救われないと信じていました。しかし、イエス様は、自らサマリヤの人に声をかけることで、福音は誰にでも届けられ、誰でも救われるということを示されました。


イエス様はサマリヤの女に「わたしは、あなたに渇くことのない水を与えることができます」と話されました。サマリヤの女は、毎日、水を汲む苦労をしていたので、この話に飛びつきました。そんな水があるなら私に下さい、と。当然、イエス様は、彼女が想像している魔法のような水のことを言われたのではありません。イエス様は、その真意を彼女に伝えるために、こう話を続けます。「その水が欲しいなら、夫を呼んできなさい」と。しかし、彼女には夫がありませんでした。彼女は、「私には夫がありません」と言いますが、イエス様は、彼女に以前5人の夫があったことを言い当てます。それを聞いた彼女は、この方は預言者だと言い恐れおののきました。 イエス様は、相手の立場に立ち、相手の心を開いて話をされました。このことから、神が人に必要な語りかけをして下さらなければ、人は救われないことが分かります。福音を伝えるのは確かに人ですが、神が人の心を開いて働きかけて下さらなければ、誰も救われないのです。


さて、13,14節を見ていきましょう。

『イエスは答えて言われた。「この水を飲むものは誰でも、また渇きます。しかし、私が与える水を飲むものはだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 4:13,14)


渇くとは、魂が渇きを覚えることです。この世が与える水を飲むと、魂は渇いてしまいます。しかし、神が与えて下さる水を飲むなら、魂は渇くことがありません。なぜ魂は渇いているのでしょうか?それは、私たちが罪の罰を背負って生きているからです。罪の罰は、「死」です。死については、これまでも学んできましたが、死には二つあります。肉体の死と霊的な死です。肉体の死は、私たちに恐怖心をもたらし、霊的な死は、私たちに渇きを与えます。本来人は、永遠に生きる存在として造られ、私たちの魂は、神の愛を食べて生きるようにされました。しかし、それが罪の結果、絶たれてしまったわけです。


人は死への恐怖と、魂の渇きを覚え、それらを紛らわすために、この世の見えるものにすがりついて生きています。これが人の悲劇です。死というものから目をそらし、見えるものを手に入れることに必死になっています。しかし見えるものにしがみつき、この世の水を飲めば飲むほど、人は渇いてしまいます。いっときは潤ったかのように思いますが、以前にも増して、不安と孤独が押し寄せて来るのです。この世の水を魂に飲ませるのは、ザルに水を注ぐようなものです。私たちの心は神の愛しか受け取ることが出来ないように造られています。  神は、私たちが、こうした水を飲んで苦しんでいるのをご存知です。ですから、神ご自身がこの地上に来られ、私たちの罪の罰を代わりに受け、死の問題を解決して下さいました。肉体は滅びますが、朽ちない体に替えられます。霊的な死は神が罰を受けて下さったことで、神との関係が回復し、私たちはもう永遠のいのちの中で生きています。


神を信じ、永遠のいのちが与えられるというのは、神に接ぎ木されるようなものです。神の幹に繋がった私たちは、もう神から水を供給されて生かされています。しかし、クリスチャンになっても、人は、この世の水を飲む習慣の中で生きてしまうのです。これは、クリスチャンの悲劇です。もう神のいのちに繋がって生きているにもかかわらず、自分の置かれた現状が分からず、古い習慣の中で生きているのです。聖書はそのことを、肉に属するクリスチャンという言い方をしています。それと反対に、御霊に属するクリスチャンもいると言っています。御霊に属するクリスチャンとは、自分が置かれた現状、すなわち、もう永遠のいのちの中で生かされていることに気づき、もうこの世の水で心を満たす必要がないことを悟ったクリスチャンを指します。神から与えられた水を一生懸命飲むクリスチャンです。神の与えて下さる水は、御言葉です。自分が、肉に属するクリスチャンか、御霊に属するクリスチャンか知る方法は簡単です。聖書にこうあります。


『あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:3)

もし、私たちが互いにねたんだり、争ったりしているならば、それは肉に属するクリスチャンである印です。神に接ぎ木された私たちは、もうこの世の水を飲む必要はありません。神はこの世の水で心を満たす習慣から、神のことばで心を満たす習慣に変えていって下さいます。


『・・・しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 4:23,24)


礼拝の目的は、心の中に神の存在を大きくしていくことです。神のいのちに私たちが接ぎ木され、神が共におられることに気づいていくこと、これが霊的な礼拝です。神は、私たちの魂に満ちておられます。しかし、私たちはそれに気づいていません。それに気づくことを神は求めておられます。礼拝は儀式ではありません。とかく、人は、儀式を行うことで満足をし、自分は正しいことをしているという達成感を持とうとします。そして、これこそが霊的な礼拝だと勘違いしてしまうのです。しかし、それは礼拝ではありません。礼拝の本質は、神との交わりです。私たちは、神が共にいて下さることに目を向け、その存在により気づくために、祈り、賛美し、御言葉を聞くのです。礼拝の目的を忘れず歩んでいきましょう。