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2010年10月31日
永遠のいのちを持つ
(新約聖書 ヨハネの福音書 3:22〜36)

22節と23節では、イエス様のグループと、ヨハネのグループ、二手に分かれて、人々にバプテスマを授けていたことが書かれています。神の前に悔い改めてバプテスマを受けることは、神との関係を築く第一歩ですが、人はどの様に悔い改めに至るのでしょうか。人は人を悔い改めさせようとするとき、怒ったり、叱責したりして相手を矯正させようとします。しかし、神は、愛によって人を悔い改めへと導きます。聖書の人物を通して、人が悔い改めに導かれる様子を見ていきましょう。ザアカイは、最もわかりやすい例です。


取税人のかしらであるザアカイは、誰にも声をかけてもらう事などありませんでした。背の低かった彼は、きっと子どもの頃から人々に馬鹿にされてきたのでしょう。何とか見返してやろうと、取税人のかしらになったものの心は満たされず、いつも孤独で空しい人生を送っていました。そんなあるとき、イエス様がエリコの町を通り過ぎるとき、ザアカイはその姿を見ようと、前方に駆け寄りいちじく桑の木に登りました。イエス様は、そんなザアカイをご覧になり、そして優しく声をかけられました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(ルカ19:5)と。

嫌われ者のザアカイにとってこの言葉は、何と愛に満ちた言葉だったでしょう。泊まるとは、ある意味、命をゆだねる事を意味します。信頼出来なければそんな事は出来ません。初めてあった人から、僕は君を信頼しているからと言われるようなものです。孤独な者にとって、これほど嬉しい言葉はありません。ザアカイは、急いで降りてきて、そして大喜びでイエス様を迎えました。神の愛に触れたザアカイはどうなったのでしょうか。自分の財産の半分を貧しい人たちに施し、まただまし取ったものは四倍にして返すと言いました。イエス様は彼に、罪の事は何も触れていないのに、罪を悔い改め、それを行いで示したのです。神の愛に触れると、人は罪を悔い改めるのです。


姦淫の現場で捕まった女も同様です。彼女も、神の愛に触れたから、悔い改めました。怒って、怒鳴られて、叱責されて、悔い改めたのではありません。彼女は、神の愛に触れ、悪しき世界からは足を洗い、イエス様について行きました。神の愛が、彼女の生きる理由になったのです。


イエス様を裏切った弟子のペテロはどうでしょうか。ペテロは、どんなことがあってもイエス様に従うと豪語していました。しかし、イエス様を知らないと三度も打ち消してしまいました。そのとき、イエス様は振り向いてペテロを見つめられました。イエス様は、「ペテロ、おまえを愛しているよ」という眼差しで彼を見つめたのです。母親が赤ちゃんを見つめるように。だから、ペテロは、外に出て激しく泣いたのです。神の愛に打たれ、罪を悔い改め、神に立ち返る事が出来たのです。


神は、愛することで私たちを受け入れてくださいます。私たちは、神の愛に触れると、神の前に悔い改めずにはいられなくなります。罪は、神と私たちを引き離すものです。それを神に排除して頂くように願うこと、これが悔い改めです。


悔い改めは、神が一方的に私たちに与えて下さるものです。神が信仰を与えて下さるのでなければ、誰も、神を信じることはできません。


『 ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:27)

『この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:32,33)



32節では、「受け入れない」と言われていますが、33節では、「受け入れる」と語られています。一見、矛盾した内容ですが、どういうことでしょうか。これは、人は誰も自分の努力では神を受け入れられず、神が与えて下さって初めて受け入れられる、ということです。ですから、私たちが神を信じられるというのは、私たちの努力ではなく、神の働きによるものです。


クリスチャンの多くは、自分が本当に救われているのかどうか不安になっています。それは、自分の行いで、救いを確認しようとするからです。クリスチャンになったのに、未だに多くの罪を犯す自分を見て、これでは天国に行けないのではないかと考えています。しかし、あなたが信仰を持ったのは、あなたの努力でしょうか。あなたが立派だったからでしょうか。違います。神が与えて下さったから、あなたは信仰を持つに至ったのです。きっかけは人それぞれですが、神は背後であなたを導き、あなたを救いに導かれました。


罪は病気です。イエス・キリストは、私たちが罪の病気だから、私たちを癒すためにこの地に来て下さいました。病気を治すために来られた方が、あなたの罪の病気がなかなか治らないからといって、途中で見捨てたりするでしょうか。とんでもありません。神は、私たちの病気を治そうと、とことん付き合ってくださるのです。だから、あなたが、もし自分の行いが立派でないからと言って、自分は救われていないのかもしれない、と思っているなら、それは大きな間違いです。神が与えて下さった永遠のいのちは、決して取り消されることはありません。天国に行けるかどうかと心配する必要はありません。私たちがすべきことは、与えられた永遠のいのちを益々豊かに保つことです。何も心配しないで、神に近づいていくことを求めていけばいいのです。神に近づくことを邪魔するものは、世の心遣いと富の惑わしという罪です。この罪と戦い、神に近づくことを求めていくこと、それが神の望んでおられる事です。


『私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』(新約聖書 ローマ人への手紙8:38,39)