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2010年10月24日
世を救うために来られた
(新約聖書 ヨハネの福音書 3章)

『さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:1〜3)


ニコデモはパリサイ人のリーダーでした。パリサイ人は、神の言葉に従って生きる人たちです。それは、良いことをすれば天国に入れると信じていたからです。そのことをご存知だったイエス様は、人は行いによって救われるのではないことを説明するために、神の国に入るには、新しく生まれなければ入れないと言われました。ニコデモは、その言葉尻を捉え、人はどうやって母の胎に戻って新しく生まれるのか、とイエス様に質問し返します。


イエス様は「水」と「御霊」によって生まれなければ、神の国に入ることはできないと言われました。(5節)水は、一義的な意味としては、水のバプテスマを指し、二義的な意味としては、罪の悔い改めを指します。私たちは、罪を悔い改める事によって永遠のいのちをいただくわけですが、それこそが天国に入る条件です。行いによって天国に入れるわけではありません。


『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:16,17)


イエス様は、神が遣わした御子を信じることで、永遠のいのちは与えられることを示しておられます。イエス様が来られたのは、人をさばくためではなく、救うために来られました。

中国のある青年の話があります。中国には様々な宗教があります。そこで、青年は、自分は何を信じて生きようかと迷います。そんなあるとき、彼は夢を見ました。穴に落ちる夢です。青年は、落ちた穴からどうやっても這い上がることができません。そこで、彼は助けを呼びました。すると、孔子がやってきてこう言いました。「もし穴から出てこられたのならば、どうして穴に落ちてしまったのかよく考えなさい。そして、再び失敗しないように気をつけなさい。」そう言って、孔子は去っていきました。

次に、お釈迦さんがやってきました。お釈迦さんは、こう言いました。「あなたを助けてあげよう。その代わり、私の手の届くところまでは、自力で這い上がってきなさい。そうすれば、私はあなたを引き上げよう。」釈迦の教え(仏教)は、輪廻転生を唱えます。そこから解脱して、寂静の中に入るためには、苦行、修行を積み、悟りを開くことを教えます。彼はお釈迦さんの手の届くところまで登るように努力しましたが、それもむなしく、穴から出ることはできませんでした。

そこに、イエス・キリストがやってきました。イエス・キリストは青年が穴に落ちたのを見て、穴の底に下りてきてくれました。そして、青年を抱え、穴の上まで登り、彼を助けてくれました。青年は夢から目ざめ、イエス・キリストを信じて生きていく決心をしたそうです。


私たちも実は、穴の中で生きています。この穴は、死、という穴です。誰もそこから這い上がることは出来ません。ニコデモのように、行いによって救われると信じ、どんなに良いことをしても、どんなに人からほめられても、どんなに立派なものを手にしても、そんなことで穴から出られるわけではありません。私たちはただその穴の中で死を待っているに過ぎない存在です。イエス・キリストは、この死の穴から私たちを救い出すために、私たちのところに下りてきて下さいました。


『御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりも闇を愛した。その行いが悪かったからである。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:18,19)


私たちは、悪いことをしたから、罰が当たると、因果応報の考えを持ってしまいます。しかし、私たちは、生まれながらにして罰を受けています。神が人に与える一番の罰は「死」です。私たちが生まれながらにして、死という穴の中にいること、これこそがもうすでに罰なのです。ですから、これ以上、神は私たちに罰を与える必要がありません。

この罰に、人がどれほど苦しめられているかを知っているので、神は、そこから助け出すために下りてきてくださいました。助けに来られた方が、さらに何か罰を与える事があるでしょうか。あり得ません。私たちが罰だと感じること、それは、私たち人間が引き起こしたことです。神が新たに罰を与えているわけではありません。神は、人が招いた不祥事もすべて益としてくださると約束してくださっています。


私たちは、罰と同様、祝福のことも勘違いをしています。19節に、さばきというのは、『人々が光よりも闇を愛した。』ことだと書かれています。これは、見えるものにしがみつくことを指しています。人は、見えるものがたくさん与えられ、何不自由ない生活をしている人を見ると、祝福を受けていると考えます。しかし、神はそう考えておられません。その様になればなるだけ、人は見える物にしがみつき、心が神からますます遠ざかっていくということを説明しています。死の恐怖は、見える何かにしがみつき、穴の上に這い上がろうとさせます。見える物に淡い望みを抱くほど、神の助けに人は気づけなくなってしまいます。神は、人が闇を愛することを何とかやめさせたいと思っておられます。何かを得る事ではなく、神を信じられることが大きな祝福なのです。


『悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:20,21)


私たちの生き方には、真理を行う生き方と悪を行う生き方があります。真理を行う生き方は、神に近づいていくことが出来ますがそれは次の三つの勇気を持つことです。罪を憎む勇気(見て見ぬ振りをしない)、真理を選択する勇気(正しいことを前にして屈服すること)、自らの姿を認める勇気(正直な姿を認める)です。

イエス様は、罰を用意しているのではありません。みな、穴の中にいて、どうしようもない状況です。その事に気がついて神様に助けてください、ということが、真理を行うという言葉の意味です。強くもないのに、強いふりをし、偉くもないのに偉いふりをする、ほめられる価値もないのに、ほめられようとしている。そんな自分を認めることです。自分は、弱くて罪深い人間だと認め、助けてください、と叫ぶ勇気を持つこと、これが、真理を行う生き方です。悪を行う生き方とは、全て逆の生き方です。神は、真理を行う者を、引き上げてくださいます。