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2010年10月17日
神殿
(新約聖書 ヨハネの福音書 2章)

『それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 2:1〜4)


イエス様は、母マリヤが、神聖化されることを予見しておられました。マリヤはただの人だとイエス様は言われました。ですから、彼女を通じてでないと、イエス様に祈りを捧げる事が出来ないというような信仰は間違っています。イエス様は、人々がその様な誤った道に逸れてしまうことを防ぐために、あらかじめ、このようなやり取りを聖書に残されました。


『さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。・・彼は、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。』(新約聖書 ヨハネの福音書 2:6〜11)


イエス様が奇蹟を行う目的は、私たちの信仰を成長させるためだけです。私たちを喜ばせたくて奇蹟を行うのではありません。奇蹟を見た弟子たちはイエスを信じた、とありますが、弟子たちがイエス様を神だと信じたのは、これ以前の出来事です。では、ここでいう「信じた」とは何を指すのでしょうか。それは、イエス様への信頼が増し加わった、ということです。神が私たちに奇蹟を見せて下さるのは、神への信頼を増すためです。「信じる」という言葉には、神を信じる、という意味と、信頼が増し加わるという意味の、二つがあります。私たちの人生は、旅のようなものです。すべては、神への信頼を増し加えるための道具に過ぎません。私たちの目指すべき方向は、イエス・キリストです。


『そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 2:14〜16)


イエス様のこの行動には、どういう意味があるのでしょうか。宮は、神の家です。神の家は、祈りの家でなければなりませんが、そこで商売する人たちを神は排除しておられます。神の神殿は、見える宮を指すだけではありません。私たちの心の中も、神が住まわれる神の神殿です。神は、その神殿が罪で汚されたなら、罪を排除なさいます。私たちの心には、世の心遣いと富の惑わしという罪が住みついています。心が罪で汚れないように私たちも努めますが、しかし、自分の力でできることは、せいぜい悪いことをしないように喰い止めることぐらいです。私たちの力では、富の惑わしや世の心遣いを根本から排除することは出来ないのです。これと真っ向から戦えるのは神しかいません。私たちは、ただ主に罪を掃除していただけるよう、お願いすればいいだけです。


『イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。』(新約聖書 ヨハネの福音書 2:19〜21)

これはどういう意味でしょうか。それを理解するために、次の御言葉を見てみましょう。

『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:16,17)


見える神殿(教会)と私たちの心が同期していることが書かれています。教会に対する態度は、自分に対する態度であり、また、人に対する態度は、神に対する態度です。すべてが繋がっていることが書かれています。もし、私たちが誰かをさばくなら、それは、自分自身を裁くことになり、心を破壊してしまいます。もし、お互いに励まし合い、とりなしていくならば、それは教会を大切にすることになります。教会を大切にするとは、神を大切にすることです。目には見えませんが、私たちはみな神のいのちで一つに繋がっています。人にすることは、自分にすることであり、それは神にすることです。


『イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。』(新約聖書 ヨハネの福音書 2:23〜25)


ここで用いられている「お任せにならなかった」という言葉は、信じなかったという意味です。人々は、しるしを見て神を信じましたが、それは、御利益を求めて信じたということです。御利益を求めて信じた人は、いざというとき、神を捨てられます。神を利用するために信じていたに過ぎなかったからです。神は、罪人を探しています。自分が罪深い人間だと気づき、どうしようもない弱さを抱えた人間だと認める人を招いておられます。私たちは、ただ正直な自分を認め、神の前に差し出せばいいだけです。