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2010年10月10日
何を求めていますか
(新約聖書 ヨハネの福音書 1章35節〜51節)

イエスが活動を開始されたとき、バプテスマのヨハネの二人の弟子がヨハネがイエスの事を「神の小羊」と言ったので、二人はイエスについて行きました。するとイエスは振り返り、彼らに質問をしました。「あなたがたは何を求めているのですか。」(ヨハネ1:38)と。しかし二人は答えらずにイエスにどこに泊まっていますかと話のかみ合わない質問をしました。


何気ない会話ですが、もしあなたにイエスが同じ質問をしたら、あなたは答えられるでしょうか。あなたの一番欲している願望を答えられるでしょうか。人は、それを知っているようで知りません。しかし神は、人が何を一番欲しているかを知っています。その理由は簡単です。神が人を造られ、その願望を人に与えたからです。それは、神との交わりです。神は愛であるので、人の心は神の愛を求めるように造られました。人は、神から愛される事を最も欲しています。それでしか満足できない様に造られています。神はその事をこのように述べています。


『わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:27)


神が与える平安と、この世が与える平安はまるで違うものです。この世が与える平安とは、何か見えるものにしがみついたときに手にする平安のことです。ある人は、富を得て、ある人は仕事を成功させて、周りから評価をされることで平安を得ます。しかし、この平安には大きな欠陥があります。それは、恐れが常につきまとうことです。人は、何かを手に入れると、それを失ったらどうしようという恐れを同時に抱きます。それを失ったらどうしようか・・・。地位を手にすると、自分を守るための動きをするようになります。私たちは、そうした恐れを何度も経験しているでしょう。この世が与える平安は、恐れがつきまとうので、その恐れを消すために、新たな見えるものにしがみつく、こうしたことを繰り返すものです。

しかし神の与える平安には、恐れが伴いません。神の平安は恐れを締め出すものです。私は一人ではない神に愛されているという安心が生まれます。失うことのない平安です。

私たちは、確かに、愛や平安を求めているけれども、どうやって手に入れるかを分かっていないために、この世からの平安を手にしようとしてはいないでしょうか。


『イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。』(新約聖書 ヨハネの福音書 1:39)


ヨハネの二人の弟子は何を求めているか分かりませんでした。しかしイエス様はついてくれば分かりますと言われ、彼らはイエス様について行きました。私たちが神を知る事が出来る第一歩は、神のことばに素直に応答することです。この二人はイエス様がついてきなさい、と言ったときに断ることも出来ました。しかしついて行きました。何を求めているかを知りたければ神のことばを求めることです。神は私たちが何もしなければ何もされません。

クリスチャンはイエス様を信じることが出来ましたが、それで終わりではありません。神のことばに応答しない限り、私たちは前に進んでいけないのです。


『イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 1:47)


ナタナエルは、聖書に登場する回数が極めて少ない弟子ですが、イエス様は、ナタナエルをあなたは本当のイスラエル人だと言われました。なぜそう言われたのでしょうか。彼は、救い主が来られるという約束を、真剣に待ち望んでいました。彼には、偽りがないということは、真実を求めている、ということです。偽りの人生を生きるのか、真実の人生を生きているのか。この人は、本気で自分の人生を考えて、何が真実なのか、求めているので、偽りがないと言われました。


自分が何の為に生きているのか考えたことがあるでしょうか。人生とはいったい何なのか。どこから生まれてどこに行くのか。それを真面目に考えているでしょうか。そうしたことを、真面目に考えたら、答えは必ず見出すことができます。私たちを造られた方がおられる、ということに行き着きます。人が神によって造られたと分かれば、生きることが明確になります。神の目的を知る事が生きる理由だと気づくからです。妥協して偽りの人生を生きていこうとするなら、答えは見出せません。私たちに確実におとずれるものは、死です。私たちは、日々死を宣告されているのと同じです。死を真面目に考えなければ、今をどう生きるか優先順位が分かりません。何が真実なのか、神に求めて生きましょう。


『ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 1:49)


ナタナエルは、イエス様の事を「イスラエルの王」と言いました。この事を彼が告白できたのは、神がご自分を明らかにされたからです。 救いは、私たちが努力した結果得られるのではありません。あなたが神の言葉に応答したのを見て、神が信じる信仰を与えて下さるものです。人の努力で手に入れるものを、信念と言います。知識と信仰は違います。信仰は、理屈ではありません。ナタナエルは、神のことばを聞いて、求めていたもの(救い主)をすぐに見つけることが出来ました。そのナタナエルに対して、イエス様は「さらに大きなことを見ることになる。」(ヨハネ1:50,51)と言われました。


私たちには、神からいただいた信仰があります。信仰というものをうまく使うことを通じて、私たちは神の栄光を見ることが出来ます。それを、イエス様は、御使いが上り下りするのを見る、と言われました。大きな事とは何を指すのでしょうか? それは、私たちが神がおられるという信仰以上のものを得る事です。


『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:6)


神を求める者には、神が報いて下さいます。その為には、神が与えた信仰を使い、求めるように言われました。祈り求めると、現実の形で祈りが答えられる人と、答えられない人がいます。その結果をみて、自分には信仰が足りないから、神は答えて下さらないと思う人がいますが、神に求めて、神が現実の問題を解決されるかどうかは、重要な問題ではありません。神が与えたいのは、問題の解決ではありません。かえって、祈りに答える事で神との間が妨げられる、と神が判断されたら、神は与える事はしません。

パウロは自分の病が癒されることを求めましたが、癒されませんでした。しかし、彼は、なぜ自分が癒されないのかそれを悟りました。それがあるから、自分は神の恵みを受け取ることが出来ると知りました。神の目的は、ただ、神がおられる、という信仰に留まる事ではなく、神への信頼が増す、という大きな事を見せたいのです。