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2010年10月03日
世の罪を取り除くために
(新約聖書 ヨハネの福音書 1章15節〜37節)

『というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。』(新約聖書 ヨハネの福音書 1:17)


【律法とは何か?】

律法とは、狭い意味では、モーセに与えられた十戒を指し、広い意味では、聖書全体を指します。律法の目的は、私たちを罪に気づかせることです。律法という基準がなければ、私たちは、自分が罪人であることに気づけません。神は、私たちが神の考えとずれていることに気づかせるため、律法を作られました。


【恵みとは何か?】

恵みとは、神が一方的に私たちに与えて下さるもののことを言います。私たちの努力や行いによって得られるものではありません。私たちが努力して得るものを、聖書は「報酬」と呼んでいます。


神の救いは恵みによるものです。私たちは、自分の罪に気づきますが、自分で自分を救うことは出来ません。救いは、イエス・キリストを信じる信仰によって、神から一方的に私たちに与えられるものです。


『ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」・・・・彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 1:15,20〜23)


ヨハネは、自分はキリストではなく、主の道を整える者であると言いました。キリストは、私たちの罪を取り除く為に来られましたが、キリストが来られたときに、もし人々が罪を認識していなければ、救いを受けられる者がいなくなってしまいます。ですから、キリストが来られる前に、罪を犯しているという意識を人々に持たせる必要がありました。ヨハネはその役割を担っていました。彼は、キリストが来られるその前に、人々に罪の悔い改めを説きバプテスマを授けていました。


私たちは、みな罪人です。罪とは、御言葉に反することです。表向きは、御言葉を実行出来たとしても、厳密な意味では実行できません。なぜなら、神は行いだけではなく、思いも同様に罪とみなされるからです。例えば、盗んではならない、という戒めがありますが、実際に、隣人のものを盗むことはなくても、隣の人をみて「いいなあ」と思うことはあるでしょう。神の前では、実際に行動に起こすことも、心の中で思うことも同罪です。


自分が罪人だということが本当に分かるなら、恵みのありがたさは身にしみてきます。それは、こう表現することが出来ます。自分が罪の中にいると気づき、どうにか、その罪から脱出しようとしたけれども、周りがすべて海で囲まれていて、自力では脱出できないことが分かった、というようなものです。そのことに気づいたら、助けが来るのを待つしかありません。助けが来たなら、何と感謝することでしょう。それがキリストです。キリストが罪の中から脱出できるように船を出してくださいます。その船に乗るしか私たちには助かる道はありません。


『またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』(新約聖書 ヨハネの福音書 1:32,33)



さて、ヨハネはバプテスマを授けていましたが、彼は神ではないので、水でバプテスマを授けることが出来ても、心の中に神を住まわせることは出来ませんでした。しかしキリストは神ですから、私たちの心の中に、三位一体の神である聖霊を満たすことが出来ます。イエスは、聖霊によってバプテスマを授けるとは、聖霊が私たちの心の中に住むようにして下さる、という意味です。聖霊によるバプテスマというと、ペンテコステでは、異言を伴うものと教えられますが、それだけではありません。神が私たちの中に住んでくださっていること自体が、聖霊の働きによるものなのです。


私たちの心に神が住んでくださることを、聖書は「私たちは神の神殿である」と表現しています。神を信じる前は、私たちの心には、神の住まわれる家はありませんでした。


『私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:9〜16)


私たちの心には、イエス・キリストという土台が築かれました。しかし、私たちは、いつの間にか、その土台の上に、自分の願望を達成するという家を立ててはいないでしょうか。金、銀、宝石、草、木、わらは、この世のもの、すなわち神以外のものを指します。イエス・キリストの土台上に、自分の願望を達成するものを建てたとするなら、それはすべて焼かれてしまいます。私たちの肉の願望は、「人からほめられたい」「人からよく思われたい」というものですが、それを達成したところで、何も残りません。神が求めているのは、イエス・キリストを信頼できる家を建てて欲しいということです。神への信頼は、見えるものにしがみつかず、信頼できる家です。それは、あなたが神とコミュニケーションをとり、罪も弱さも隠さず、神と何でも語りあい、神の助けを大いに受ける家を建てることです。神は、あなたがその様な家を建てることを待っておられます。それが、神の住み心地の良い住まいです。