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2010年9月26日 献堂6周年記念礼拝メッセージ
『人類の悲劇』
(新約聖書 ヨハネの福音書 1章)

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』(新約聖書 ヨハネの福音書 1:1)


私たちは、神によって造られました。しかし、私たちは、それを知らずに生まれて来ました。

1.私たちは、どこから来たのかを知らない

『この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。』(新約聖書 ヨハネの福音書 1:10)


自分がどこから来たのかわからないから、常に不安がつきまといます。自分が何者かが分からない。何の為に生きているのかが分からないのです。どこからきたのか分からないから、今どう生きていいのか分からないのです。


近年、科学は大きく進歩しました。今、科学者達の関心を集めているのは、『ダークマター』という物質です。宇宙の八割を占めると言われる素粒子で、これ無しには宇宙も人も存在しないことが分かっています。しかし、これがいったい何なのか、未知であり、世界の科学者が、この解明に必死になっています。  科学が進歩すればするほど、明らかになってきたのは、聖書の正しさです。目に見えない何かがあって、私たちはそれによって支えられていることは、聖書に書かれていることです。今まさに科学者が解明しようとしていることです。


2.どこに行くのか分からない

どこに行くのか分からないということは、私たちの生き方にどう影響するのでしょうか。私たちはどこに向かっているのか分からないけれど、一つだけ確かなのは、死に向かっていることです。ですから将来に対する不安や死に対する恐怖につきまとわれます。神はイエス・キリストを信じる者には、神の子どもとして生きる特権を私たちにお与えになりました。


『しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。』(新約聖書 ヨハネの福音書 1:12,13)


人が救われるのは、努力ではありません。また、神を信じることが出来るのも、私たちの努力ではありません。神が私たちの目を開かせてくれるから信じることが出来るのです。神の憐れみによります。神を信じるならば、その事を通じて、私たちはどこに行くのか知ることが出来ます。私たちは、ただ、神により頼めばいいのです。


3.自分で自分の欲しいものが分からない

あなたは何が欲しいですか?と聞かれたら、何と答えるでしょう。家ですか?車ですか?私たちは、「これが欲しい」と思うものを手に入れて幸せになろうとします。それを手に入れたら、満足できると思っているからです。しかし、手に入れたときは、満足できるけれど、それでは満足できず、次のものへと心が移っていかないでしょうか。このことは、何を意味するかというと、人は、自分の欲しいものが分からないということです。欲しいものを手に入れても、満足しきれなかったということは、欲しいものが別にある、ということです。 人が、本当に欲しているものは、何なのでしょうか。それは、神に愛されることです。


『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。』(新約聖書 ヨハネの福音書 1:14)


神は、私たちに愛を示すため、この地上に来られました。人は、神に愛されることを欲しています。しかし、人は、それに気づかず、人に愛されることを必死に求めてしまいます。いっときは楽しいけれど、それで満たされるわけではありません。人の与える愛には、限界があるからです。励まされるようで、何かあれば叱られてしまう。嫌われてしまう。人に愛されるために、嘘の自分を築いていく生き方はつらいものです。神は、そういう弱い私たちをそのまま受けとめ、励まし、慰め、支えてくださいます。