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2010年9月12日 礼拝メッセージ
『恐怖と戦う』
(新約聖書 マタイの福音書)

罪の根は、見えるものにしがみつくことです。これを聖書は偶像礼拝といいます。神のことばではなく、見えるものを頼ること、これがあらゆる悪の根です。


では、私たちが見えるものにしがみつくのはなぜでしょうか。それは、死に対する恐れがあるからです。アダムとエバが罪を犯した結果、私たちには罪の罰が与えられました。それが、死です。死には二つのものがあります。私たちの体が滅びる「肉体の死」と、神様との交わりが断絶される「霊的な死」です。私たちは日々「肉体の死」を背負って生きているので、不安と恐れを抱えています。また、「霊的な死」により、神様との関係が絶たれたので、心を何かで満たしたくて仕方がありません。そこで、人は、見えるものにしがみつくようになりました。しがみついたもので心を満たし、死の恐怖を紛らわそうとして生きています。しかし、その生き方は、私たちの心にいっときのごまかしを与えるだけで、神様との溝をますます深めていってしまいます。


神は、私たちを苦しめている原因が「死」であることをご存知なので、イエス・キリストをこの地上に送られ、その解決のために十字架にかかって下さいました。「肉体の死」に対しては、自ら復活し、私たちが朽ちない体になることを宣言されました。もう一つ「霊的な死」に関しては、神と私たちの交わりを回復するために、十字架で私たちの受けるべき罰を身代わりに受け、すべての罪を帳消しにして下さいました。私たちの犯した罪は、これから赦されるのではなく、もうすでに赦されているのです。私たちがこれから犯す罪についても同様です。罪が神と私たちの間の隔ての壁となっていましたが、壁は取りのけられました。ですから、私たちは今こうして神と交わりをすることができるのです。神との関係が絶たれた状態では、神と交わることが出来ません。罪を帳消しにしていただいたお陰で、私たちは神と交わることが出来るようになったのです。


『終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:52〜55)


神は、十字架で罪の罰をすべて処分して下さいました。ですから、私たちはもう見えるものにしがみつく必要はなくなりました。神は私たちに、「見えるものではなく、わたしにしがみつきなさい」と語っておられます。罪から解放された私たちは、もう苦しむことがないはずです。しかし、現実には、未だに私たちは見えるものにしがみついてしまい、そこから様々な問題を抱えてしまっています。


どうしてこの様な現象が起きてしまうのでしょうか。それは、私たちが神のことばを信じていないからです。神のことばは、80%位は信じられる、とかいうものではありません。神のことばは、信じるか信じないか、どちらかしかありません。私たちが見えるものにしがみつくのは、神のことばが信じられないからです。もし、本当に「死は勝利にのまれた」という御言葉を信じられるなら、見るものにしがみつくことはありません。


私たちに残された戦い、それは信仰の戦いです。それは、具体的には、死の恐怖と戦っていくこと、すなわち、見えるものを手放していくことです。神は、その戦いが出来るように、私たちに「信仰」という武器を与えて下さいました。その武器を使って、見えるものから手を放し始めれば、私たちは自由になります。信仰で戦うとは、信仰を成長させていくことです。しかし、それはいきなり成長するものではありません。日々の訓練の中で育てていくものです。信仰を成長させるためには「信仰で解決していく」という日々の積み重ねが必要です。


その事をダビデとゴリヤテの話しを通して学んでみましょう。


ダビデには、兄弟が8人いました。兄たちは、立派な体格で、出兵しましたが、彼は末の子で羊飼いをしていました。当時、イスラエル人は、ペリシテ人に追い込まれ窮地に立たされていました。戦場では、ペリシテ人からゴリヤテが代表戦士として出されましたが、彼は、身長264p、57キロの鎧をまとうような巨人で、イスラエルには誰も彼に立ち向かえる者がいませんでした。サウル王もイスラエルの兵士達も、意気消沈してしまいます。


そんなときです。ダビデは父から命じられ、兄たちの様子を見るため、戦場に差し入れをしにいきます。ダビデはその様子を見て、事もあろうに、自分がゴリヤテと戦うと名乗り出ます。人々は、ダビデのような若くて力のない青年が、ゴリヤテを倒すことなど出来ないと思いました。
しかし、ダビデには、勝算がありました。彼は、羊を守るため、日々獣と格闘し、その都度主に守れてきた実績がありました。それゆえ、ダビデはゴリヤテも倒すことができると確信しました。今まで自分が積み上げてきた経験も、これまで幾たびも危険なところを主が助けてくださった経験も、すべてが有効に働き、彼を押し出したのです。必ず、神はこの戦いも助けてくださる、彼にはその信仰がありました。ダビデはそのときこう言っています。


『獅子や、熊の爪から私を救いだして下さった主は、あのペリシテ人の手からも私を救いだして下さいます。』(旧約聖書 サムエル記第一 17:37)


サウル王は、その話を聞き、ダビデに自分の鎧と甲を着せ、出陣させます。そして、ダビデは、石を一つ拾って、石投げで放ち、ゴリヤテの額を打ちました。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れ、ダビデは勝利を収めました。


この様に、ダビデは、獣と戦う中、神がその都度助け出してくれたという経験を基にゴリヤテと戦う事が出来ました。私たちも、ダビデが獣と格闘し神が助けてくださることを経験していたように、日々直面する問題に信仰で立ち向かうことで、神が助けてくださる、という経験を積んでゆくことができます。


『求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。』(新約聖書 マタイの福音書 7:7)

『イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」』(新約聖書 マタイの福音書 21:21,22)



神は、何でもいいから求めなさい。そう仰っておられます。そのことで信仰が養われるからです。神は、何かを与えて豊かにすることが目的ではなく、信仰を育てるために上記のような御言葉を語っておられます。直面する問題の解決を祈り求めることで、神は、祈りは必ずきかれる、という経験を積ませてくださいます。それが、神への信頼となります。


少しずつ経験を積み重ねてゆくと、次第に大きな問題に挑まされることもあります。自分にはとても手に負えない問題にぶつかると、人は、自分の罪深さに気づきます。状況に翻弄され、神のことばを信じられない、不安でたまらない自分に出会います。祈って求めれば、神は確かに与えて下さる方だと分かっているのに、現実を見ると、不安と恐れが来てしまうのです。私たちは不信仰な自分に気づき悔い改めに導かれますが、その中で神の約束が本当だと信じられるように変えられていきます。信仰はこうして積み重ねていくのです。


神に真剣に求めてチャレンジするということは、問題から逃げないことです。祈っているから何もしない、というのではなく、真剣に祈るからこそ、自分に出来ることを探してやっていくのです。喉が渇いたら水を飲まないでしょうか。水がなければ、探し続けないでしょうか。問題にぶつかったら、あきらめないで、解決するまで祈り続ける覚悟が必要です。そうしなければ、信仰は育ちません。病ならば、神にいやされるように求め、医者に行く。そこに神は働いて下さいます。神は私たちに出来ることは、私たちにやらせます。 私たちはよく、「祈ったのにきかれない」と言ってしまいますが、そうではありません。祈って何もしないから聞かれないのです。神に祈り信頼して進んでいくとき、あなたに足りない部分は、神が補って下さり、必ず助けてくださいます。神への信頼はそこで培われます。


こうして、神への信頼が増し加わると、見えるものにすがって生きることから解放されていきます。それがあなたを自由にしていきます。


問題を抱えていない人などいません。まず、そのことから祈り求めていきましょう。神は、祈りに答えて下さいます。