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2010年9月5日 礼拝メッセージ
『不信仰と戦う』
(新約聖書 マタイの福音書より)

私たちを苦しめるもの、それは罪です。人は罪というと行いの罪を思い、行いの罪なら認識しやすいのですが、表面化する罪は氷山の一角にすぎません。そして、行いの罪に対処することはもぐらたたきのようなもので、あまり効果がありません。行いの罪に至る大もとにある不信仰に対処しなければならないのです。不信仰は罪の罰である死(神との関係が断たれる死と肉体の死)の恐怖から、見えるもの(富と人)にしがみつくことです。前回のメッセージでは、不信仰を形成する3つの要素について学びました。それは、偶像礼拝、不従順、かたくなさです。今回は、これらの3つの要素に具体的に対処することを学びます。


1.偶像礼拝に対して

異教の像を拝むことを偶像礼拝と呼ぶのは表面的な意味だけです。これまで学んできたように、偶像礼拝とは、見えるものにすがることであり、神を第一にしないことすべてを指します。

『あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:2)

『ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:5)


私たちは神に頼っていると言いながら、実際はお金があることで安心しないでしょうか。私たちは何も偶像を拝まなくとも、ふだんから偶像礼拝をしているのです。そこで、神は私たちが見えるものにすがるのをやめ、神に委ねるために一つの訓練を提示されました。


『人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。』(旧約聖書 マラキ書 3:8〜10)


収入の十分の一を神にささげるという訓練です。聖書には神を試してはならないと書いてありますが、唯一ここでは試してよいと書かれています。手放すことは恐いことですが、必ず心が自由になるからです。神の祝福は見えるものを与えられることではなく、見えるものに縛られた心が解放され、心の平安を得ることです。私たちは問題解決を求め、解決することが祝福だと思っていますが、本当に自分が願っているものに気付いていません。それは神から来る真の平安です。真の平安は、握っているものを手放し、神の手を握る時に初めて得られるのです。


2.不従順に対して

神に従うための訓練として、神が提示されたのが、目に見える権威に従う訓練です。

『神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:20)


神は、目に見える相手を愛せなければ、目に見えない神を愛することはできないという考え方をされます。同じように、目に見える権威に従えなければ、目に見えない神に従うこともできないと考えられます。


『人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 13:1)


誰の上にも必ず権威があります。子は親に従い、妻は夫に従い、部下は上司に従うことで、神の権威に従う訓練を受けます。目的は神に従うことですから、目に見える権威に従う時も、神に従うように従いなさいという条件が付いています。


3.かたくなさに対して

人には知、情、意があり、かたくなさは情の部分なので、理屈が通用しません。感情は常に愛されることを求めています。感情を間違った知識が背後で操っています。その間違った知識とは、罪を認めたら愛されなくなるというものです。そのために自分は悪くないと主張し、悔い改めることができないのです。イエス様はこの間違った知識と戦われました。イエス様はこの世で罪人とされる人たちとよく関わりました。なぜ罪人とかかわるのかという人たちに対し、ご自分は罪を罰するためではなく、罪をゆるすために来たのだと言われました。そして、自分が罪人であると分からなければ、わたしとは何の関わりもないとも言われました。

『あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。』(新約聖書 ルカの福音書 15:7)

『あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」』(新約聖書 ルカの福音書 15:10)


天で喜びがわき起こるという表現は、良い行いに関して書いてあるのではありません。罪人が悔い改めるときなのです。良い行いをすることで神との関係が築かれると思うのは大きな勘違いです。神との関係は悔い改めによってはじめて築かれます。神と人は医者と病人の関係です。私たちは病人といっても風邪をひく程度だと思っているでしょう。しかし、よくよく見ればがん細胞があり、それも末期症状だということがわかります。

自分ではどうしようもない状態だということに気づけば、医者の所へ行くでしょう。しかし、それを妨げるのがかたくなさです。神の前に自分の病(罪)を認めれば、罰せられると思っているからです。その誤解を解くため、イエス様は放蕩息子の話をされました。放蕩の限りを尽くし、すべてを失った時、息子は自分の罪に気付き、罰を受けても仕方ないと覚悟を決めて父のもとへ帰ります。


『しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。』(新約聖書 ルカの福音書 15:17〜24)



神は私たちを苦しめる罪という病を治療したいのです。ですから、私たちが自分の病に気付き、神のもとへ来ることを切望しておられ、この父親のように自分の罪に気付き、神のもとへ来た私たちを喜ばれるのです。神が罪の病を治療し、それが治ったとき、どんなに自由になることでしょう。罪の罰は、人が受けなくて済むように、神ご自身が受けられました。それがイエス・キリストの十字架です。


これらの不信仰の罪と戦うことで、私たちは自分の罪深さに気付きはじめ、医者である神がどれほど必要かが分かります。恐れず神のもとへ行くなら、私たちが本当に欲する真の平安という神の祝福をいただき、自由になるのです。