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2010年8月29日 礼拝メッセージ
『不信仰について』
(新約聖書 マタイの福音書)

前回は、罪の行為を許可する怒りという思いについて学びましたが、今回は怒りを生む土台となる不信仰について学びます。不信仰は表面的には、神の言葉を信じられず、つぶやくといった態度に表れますが、内面的には3つの要素で構成されています。その3つとは、かたくなさ、不従順、偶像礼拝です。


かたくなさは、罪の悔い改めを拒否します。不従順は、神の言葉、権威に従いません。偶像礼拝は、見えるものにすがることです。神の罰である死を拒否し、神に頼らず見えるものにすがって何とかしようとするのです。人は、不信仰の生き方によって自分を守るために、新しい価値観(神の価値観に対抗する肉の価値観)を生み出しました。


私たちが聖書を理解できないのは、肉の価値観で読むためです。そのため、神は肉の価値観を壊そうとされます。そのために私たちに試練を与え、本当の自分の姿に気付かせ、砕こうとされるのです。砕かれることで、肉の価値観が壊され、神の価値観でものを見ることができるようになる、それこそが神が与えたい恵みであり、最大の祝福です。

では、不信仰がどれだけ重大な問題であるかを聖書の言葉を通して見てみましょう。


『「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 3:13〜19)


イスラエルの民は、様々な罪の行為も犯しました。しかし、彼らが約束の地には入れなかったのは、それら罪の行為のためではなく、不信仰のためだったとあります。この箇所を見ると、不信仰と同列にかたくなさ、不従順(従おうとしなかった)という言葉があります。約束の地とは神の国を象徴しています。世の中でどんな立派なことをしても、神を信じることができなければ、神の国には入れません。逆に、世の中でどんな重大な罪を犯しても、神を信じることができれば、神の国に入ることができます。


『主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行なったのですか。」サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレクを聖絶しました。しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。』(旧約聖書 サムエル記第一 15:18〜24)


サウル王は、最初、自分の偶像礼拝の罪に気付きませんでした。自分は神に従って立派に振る舞い、責められるべきところはないと思い、罪を指摘されても言い訳しました。しかし、神が命じていない分捕り物を得たのは、神の言葉よりも人々の評価を優先させたためでした。これこそが偶像礼拝の本質です。世の心遣い、富の惑わしがあるのです。私たちもまたこれを気づかずにしているのです。


イエス様がペテロに対して「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言われたのも同様です。ペテロは神の御心よりも、人からどう思われるかという世の心遣いを優先させて振る舞い、その罪をイエス様に指摘されたのです。


神は行いの罪よりも、その奥にある不信仰を問題にされることを見てきましたが、何が神を悲しませるのか、さらに明確に示されているのが次のエピソードです。マルタ、マリヤの姉妹の兄弟ラザロが病だという知らせがイエス様のもとに来ました。彼らはイエス様の弟子であり、マリヤはかつてイエス様に香油を塗った女性です。しかし、イエス様はこの病は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものだと言われ、すぐには行かれませんでした。ラザロが死んで墓に葬られ、4日後にイエス様は弟子たちを伴ってマルタとマリヤのところへ来られました。


『マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」・・・(中略)・・・マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 11:21〜40)


マルタの言葉を見てみると、一方で信仰を語り、一方では不信仰な思い(本音)を語っています。そんな彼女に、イエス様はご自分の言葉をそのまま信じるよう語りかけますが、彼女は自分の知識の延長でしかイエス様の言葉を捉えられず、そのまま信じることができませんでした。そこで、イエス様はマリヤの信仰に期待されますが、彼女もまたマルタと同じことを言いました。周りの人々もイエス様の言葉を信じず、つぶやきを発し続けました。そんな中で、イエス様は霊の憤りを覚え、涙を流されました。この憤りと涙は、人々の不信仰に対してです。マルタはイエス様がまさに栄光を表そうとして墓の石を取りのけさせるときまでも、不信仰の言葉を発しました。


神を理解するのは、私たちの知識や経験によるのではなく、ただ信じることによります。しかし、私たちは自分の知識の範囲内でしか理解しようとせず、なかなか神の言葉を信じられません。私たちは毎日、不信仰によってどれだけ神を悲しませていることでしょうか。そして、その不信仰が、私たちの苦しみの原因でもあるのです。


不信仰との戦いとして、私たちがやるべきことがあります。それは、最初に見た不信仰の3つの側面に対するものです。


1.かたくなな心との戦い・・・罪を素直に認め、悔い改める訓練

2.不従順との戦い・・・権威(親、上司、先生等)に従う訓練

3.偶像礼拝との戦い・・・自分がすがっているものを手放し、神に頼る訓練



上のことをする努力をしていく中で、知識で神を捉えてつぶやくことをやめ、神の言葉をそのまま信じ、感謝する者となっていきましょう。