ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2010年8月22日 礼拝メッセージ
『怒りと戦う』
(新約聖書 マタイの福音書)

前回に続いて、マタイの福音書から学んだ罪について深く掘り下げてゆきます。自分の罪と向き合うのには抵抗を感じるかもしれませんが、罪がわからなければ、神の恵みもわかりません。私たちが神と親密な関係を持つのは、私たちの罪を正しく知り、ゆるされることを通してです。神は私たちに罪を知らせることで罰しようとしているのではなく、赦し、解放しようとしておられることを忘れてはなりません。


罪の行為に至る前に、悪い思いがあることを前回学びました。殺人という行為に至るには、憎しみという思いがあり、姦淫という行為に至るには、情欲という思いがあります。そういった悪い思いの中には実は【怒り】という共通した思いがあります。


怒りが生まれるのは次のような仕組みです。人は死の恐怖から見えるものにしがみつき、安心を得ようとし、安心を得ると、自分の価値が上がったように感じ、見えるものに価値を置くようになりました。そうすると、価値を他人と比較するようになり、違いを発見してさばき、怒りが生じます。この怒りは、カッとしたりイライラしたりといった外からわかりやすい怒りだけではなく、人によって様々な感情となります。人によっては嫉妬したり、落ち込んだり、内に秘めた憎しみ、情欲となります。様態は様々でも、それらはすべて怒りです。ですから、この怒りに対処することが、罪と戦うことになります。では、怒りが罪の行為につながることを表す具体例を聖書から見てみましょう。


『 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。』(旧約聖書 創世記 4:3〜8)


カインはささげものという見える物に対する評価を自分の価値に置き換えていました。そして、ほめてもらい、自分の価値を上がることを期待してささげものをささげました。「あなたが正しく行っていないのなら」とありますが、これは動機のことを言っています。カインは動機が正しくなかったので、期待した評価を得られず、自分の価値を上げることができず、怒ったのです。それはアベルへの嫉妬、憎しみとなりました。カインの怒りを見た神は、怒りをおさめなさいと言われました。それは、怒りが罪の行為に至ることを防ぐためでした。)


『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:26)


この聖句も、怒りを放置しておくと、罪の行為に至るので、怒りを早く終息させるべきであることを言っています。とにかく怒りをおさめなければならないその理由が前の箇所に書かれています。


『・・・もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:17〜19)


かたくなな心とは、悪い倉、不信仰のことです。罪とは心が神から離れること、その方向を指しますが、神から離れることで見えるものを欲する罪の行為に至るのです。


『キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。(新約聖書 エペソ人への手紙 4:16)
ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:25)



また、キリストの体を共有している私たちが、怒りを放置するなら、互いに傷つけあうこととなり、教会は分裂します。


『悪魔に機会を与えないようにしなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:27)


怒りを放置すれば、やがて心をコントロールできなくなり、悲劇が起きます。その時、苦しむのは自分自身であり、また周りも苦しみに巻き込み、喜ぶのは悪魔だけなのです。


『もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 2:10,11)


怒りは、人をゆるせない思いですから、怒りをおさめるとは、具体的には人をゆるすことです。別の箇所に、復讐は神のすることであるとあるように、たとえ一方的に被害を受けたとしても、自分で復讐しようとせず、神にお任せするべきです。


怒りは想像以上に物凄いエネルギーを持っています。怒りのエネルギーによって一生を過ごす人もいます。世の中のカウンセリングでは、この怒りを出して、良いものに流れを変えようとしますが、しばらくは良くてもまた元通りになってしまうという限界があります。聖書が教えるのは、怒りのエネルギーを人ではなく神に向けることです。神がそれを吸い上げ、処理して下さるからです。


怒りに対処するにあたり、まずは自分の中にある怒りを見つけなければなりませんが、先に触れたように、怒りは人によって落ち込みになったり、様々に変形するので、見つけにくい場合もあります。しかし、簡単に見つける方法があります。それは罪の性質を思い起こせばわかりますが、罪は、心が神に向かないことであり、神に心が向かないと平安を失い、不安や恐れがきます。この不安や恐れがあるのが、怒りのある証拠なのです。


次に、誰に対して怒っているのか、相手を見つけます。これもわかりにくい場合がありますが、その場合、無意識に自分の親を憎んでいることが多いものです。たとえ自分が被害者であっても、そのことで相手に対して怒ったという罪は自分の罪として神の前にあります。その罪によって苦しむのは自分自身です。ですから、怒ったことを悔い改める必要があります。


ただ、怒りのエネルギーを神のほうへと流していくのは、大変な作業です。行為の罪は、ごめんなさいで終わります。怒りの思いも、まずは悔い改めの祈りからですが、そこからさらに祈り、賛美し、御言葉を聞くことを継続していく必要があります。


怒りのエネルギーの流れを変える大変有効な方法を紹介します。それは、怒った相手の救いのために祈ることです。相手がクリスチャンならその人が祝福されるように祈ります。ノンクリスチャンであるなら、相手が救われることが、相手の最大の祝福ですから、救いのために祈ることで、怒りに代わって神の愛が心にあふれます。


私たちはみな、自分の中にある怒りを正しく認識する必要があります。それを神に差し出すことで、心は自由になり、見えるものに支配されなくなっていくのです。神はそれを切に願っておられるのです。