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2010年8月15日 礼拝メッセージ
『罪について』
(新約聖書 マタイの福音書より)

『パリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」』(新約聖書 マタイの福音書 9:11)


神様は、罪を病気としてとらえています。福音は、罪という病気をいやすためのものであり、聖書が書かれた目的は、人に罪を気づかせるためです。


『しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:22〜24)


では、罪とは何かを聖書を通して見てみましょう。

『昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。』(新約聖書 マタイの福音書 5:21,22)


人は殺人といった行為のみを罪ととらえます。人を殺すにいたるには、その前段階に憎しみ等の思いがあります。神は、思いを持ったら殺したのと同じであり、思いを罪とされるのです。


『良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」』(新約聖書 マタイの福音書 12:35〜37)


人の心には良い倉と悪い倉があり、罪を犯すということは、悪い倉から悪い物を出すことです。悪い倉ができた経緯は次の通りです。罪の罰として、人に死が入り、人は死に対して恐怖を抱き、恐怖から逃れるために見えるものにすがるようになりました。それが悪い倉です。  悪い倉は神の御心をふさぎます。御心が心に届かなければ、人は罪を犯し、実を結びません。(マタイ13章22節)悪い倉は別の言葉では「世の心遣い」、「富の惑わし」と表現されています。心のつらさを紛らわすものとして、私たちは、人にしがみつき、またはお金にしがみつきます。人にしがみつくのが「世の心遣い」となり、常に人の反応が気になるようになり、お金にしがみつくのが「富の惑わし」であり、富を持つ人に嫉妬します。


人は行いの罪なら認識しやすいものですが、行いの罪は氷山の一角で、水面下に不信仰という大きな山が存在します。それが怒り、あるいはさばく思いによって行いの罪に至るのです。つまり、悪い倉の実体は、死の恐怖から見えるものにすがる不信仰なのです。


また、罪は向きの問題ともいえます。神ではなく見えるものに向かうのが罪です。その向きを神の方向へと変えるのが悔い改めです。神は私たちのために神の方向へと歩む義の道を用意して下さいました。神を信じ、救われた人は、義の道を歩むことができるのです。


私たちを苦しめているのは、行いの罪ではなく、悪い倉(不信仰)です。罪と戦うとは、悪い倉をつぶす戦いです。具体的には、自分が何にすがっているのかを見つけ、悔い改めてそれを手放し、神にゆだねることです。


アブラハムにとって年老いて与えられた息子イサクは、いつしか彼にとって心のよりどころとなっていました。神はそのことをご存じで、息子を神にゆだねさせるために、息子をささげるという試練を与えられました。アブラハムはその試練に際し、神に向きを変え、息子を神にゆだねることができました。


不信仰にはなかなか気づかないものです。そのため、神は私たちに試練を与え、気づかせようとされます。試練は神が私たちを愛するが故に施される神の治療なのです。