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2010年8月8日 礼拝メッセージ
『復活』
(新約聖書 マタイの福音書 27章55節〜28章)

イエス様が捕らえられると、男性の弟子たちはみな逃げてしまいましたが、55,56節に女性たちはイエス様の十字架の最後まで見届けていた様子が書かれています。弟子たちはいかにも信仰があるようでしたが、信仰は見かけでは分からないものです。問題にぶつかったとき、それが明らかになります。人は本当に大切なものに目を向けます。女性たちにとって、イエス様が一番大切だったことがわかります。一方の弟子たちは、この世からの評判のほうが大切でした。


57〜60節で、アリマタヤのヨセフという裕福な弟子が自分のために用意していた墓を、イエス様を埋葬するために提供しました。イエス様は前もってこの弟子を通してご自分の埋葬の用意をしておられたのです。このことから、神は私たちの人生にも、必要な用意をしておられることを学ぶことができます。だから、心配しないで委ねていればよいのです。


28章1〜15節に、イエス様の復活の様子が描かれています。ピラトは多くの番兵たちを派遣して、弟子たちがイエス様の遺体を盗まないよう、大きな岩を入り口に置き、厳重にイエス様の墓を監視していました。しかし大地震が起き、岩は転がされ、天使が現れ、また、イエス様ご自身も復活された姿を現され、これらのことを番兵たちは目の当たりにします。しかし、長老や祭司長たちは番兵たちを買収し、弟子たちが遺体を盗んだと言いふらさせました。


イエス様の復活については、これまで多くの人たちが検証してきました。しかし、どの人たちも、調べれば調べるほどに復活が事実であったと認めざるを得ないという結論に達しました。日曜日が休日になったということも、復活の事実を証明する一例です。それまでは土曜日を安息日として人々は長きにわたってその日を礼拝の日として守ってきました。しかし、イエス様が日曜日に復活されて後、生活に浸透した習慣をあっさり捨てて、人々は日曜日に礼拝をするようになり、全世界的にも日曜日が休日となったのです。復活の出来事に限らず、聖書に書かれていることは、掘り下げるほどに真実であり、これまで一度も書き換えられたことはないのです。


16〜17節で、弟子たちは復活されたイエス様を礼拝しました。ここで今一度、礼拝とは何かを再確認しましょう。礼拝の意味は、神の言葉に応答すること、神に心を向けることです。日曜日の集会を指すのではありません。ですから、賛美することも、悔い改めることも、すべて神に心を向けることですから、礼拝です。逆に、心を神に向けないことが罪です。イエス様を見捨てて逃げていた弟子たちも、イエス様のもとに来た背景には、悔い改めがあったことがわかります。


『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』(新約聖書 マタイの福音書 28:19〜20)


イエス様は礼拝しに来た弟子たちに向かって、メッセージを語られます。まず、弟子としなさいとありますが、自分の子どもに信仰を継承することが中でも大事なことです。それは、聖書の言葉を教えることというより、神が共におられることを実生活の中で教えることです。人生で誰もが必ず問題にぶつかりますが、その時がカギとなります。問題にぶつかったときに、神に祈り、神に解決を求めることを教え、共に祈るのです。これは親自らがそのように生きていなくては伝えられません。


最後にイエス様は、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と言われました。私たちを助けるために命を惜しまずに捨てられたイエス様です。人が私たちを見捨てても、父である神は私たちを見捨てることは決してありません。私たちは一人ではなく、神が共におられることをどこまで実感しているでしょうか。私たちは問題にぶつかったときこそ、人を頼るのではなくまず神に祈り、神に助けをいただくことで、神との信頼関係を築き、神がいつも共におられる実感の中で生活するようになるのです。