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2010年8月1日 礼拝メッセージ
『十字架での死』
(新約聖書 マタイの福音書 27章27節〜54節)

十字架につけられる前のイエス様に対する酷い虐待の様子が書かれています。ここで考えたいのは、なぜ人は人に対してこのように残虐な行為ができるのかということです。虐待までいかないまでも、怒ったり責めたりして、人を傷つけることも同じです。それは、人は価値があると判断したものは大切にしますが、価値がないとみなすとぞんざいに扱えるからです。その価値観は人の罪によるもので、神とは全く違う価値観であり、人を行い(不完全な)をみてダメだと判断します。私たちは、罪によって植えつけられた間違った価値観で人に価値がないと判断するから、人に対して、酷いことが平気で出来てしまうのです。


その後、イエス様は十字架につけられるゴルゴダの丘に連れて行かれます。通常、十字架刑を受ける人は自分で十字架を担いで行くのですが、イエス様にはもはやその力が残されていませんでした。イエス様の受けた虐待行為がそれほど過酷なものであったことがわかります。


祭司長や律法学者たちをはじめ、群衆は今度は言葉でイエス様を責め始めました。ここに神に対する強い反抗心が見えます。私たちは罪と戦うほどに、今まで気づかなかった罪に気付きます。私たちは最初、行いの罪を問題にし、それと戦いますが、それは罪のうちの氷山の一角です。水面下にある罪の大きな部分は、不信仰であり、神に対する反抗心です。そして、神はその部分を私たちに気付かせようと導いておられるのです。


イエス様は十字架上でこのように祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」神は罪を病気としてとらえています。だからイエス様はこのように祈られたのです。神はもともと人を神に反抗するように造られませんでした。ところが、サタンが罪という病原菌を植えつけたので、人は病気にかかってしまったのです。イエス様はこの罪という病から人を解放すべく、自らその病を背負い、死んでくださったのです。


イエス様は「どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と神に祈られました。この言葉は詩篇22篇にも書かれていて、イエス様は詩篇のことばで主を賛美しようとして、この言葉で終わってしまったと捉えられることもありますが、ここはイエス様の言葉通りの意味として受け取る必要があります。イエス様は本当に神に見捨てられたのです。罪の罰である霊的な死、それは神との関係が断ち切られることを意味しますが、イエス様はこの時、神との関係を完全に断ち切られ、罪の罰を受けたことを宣言しているのです。  イエス様が息を引き取られる前、もう一度叫ばれたとありますが、その言葉は別の福音書に「わが霊を御手にゆだねます」と書かれています。これはイエス様が私たちに残した重要なメッセージです。私たちが困難にぶつかる時、問題なのは困難な出来事ではなく、私たちが神に委ねられないことなのです。どこまで自分を神に委ねることができるか、これが私たちの生きる道なのです。


イエス様が息を引き取られると、神殿の幕が真っ二つに裂けました。これは、罪によってできた私たちの心の覆いが取り除けられ、神と交わることができるようになったことを意味しています。イエス様は私たちを罪から解放し、神との関係を回復してくださったのです。


心の覆いとは、肉の価値観、つまり行いで人を見る見方です。そこから憎しみ、嫉妬、敵意が生まれます。


『そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:12〜16)


私たちは神との関係を回復していただきましたが、まだ敵意が生じます。それは昔の記憶が残っているからです。しかし、神はそういった敵意を廃棄してくださいます。その方法は、悔い改めて、神の愛を体験することです。


聖徒とは、キリストを主と信じる人のことですが、イエス様の死後、聖徒たちがよみがえったとあります。これは、イエス様が死を完全に克服したことを象徴しています。主を信じる者は死んでも新しいいのちをいただいて神と共に永遠に生きるのです。


『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:14)


イエス様は私たちを死の恐怖からも解放してくださり、これで肉体の死と霊的な死の両方を克服されたことになります。


通常、十字架刑を受けた人は、十字架上で数日生きるそうです。しかし、イエス様は数時間で死に至り、わき腹を刺すと血と水がわかれて出てきました。これは、死因が心臓破裂であることを意味しています。それほどの霊的苦しみを味わわれたことを意味しています。それは私たちの罪ゆえです。しかし、イエス様は私たちを愛するが故にその苦しみを担われました。


私たちの心の奥底には不信仰、反抗心があり、委ねられない思いがあります。イエス様を十字架につけた人たちとなんら変わらないのです。そのことに気付き、悔い改めを通し、委ねる信仰をいただきましょう。