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2010年7月25日 礼拝メッセージ
『十字架につけろ』
(新約聖書 マタイの福音書 27章1〜26節)

26章で、ペテロはイエス様のことを知らないと言った後、自分の罪深さに気付き、彼を見つめるイエス様の愛に触れ、悔い改めました。一方、ユダは、イエス様が十字架で処刑されることになると、自分のしてしまった事の重大さに後悔し、自殺します。二人ともイエス様を裏切ったことに変わりはありませんが、悔い改めと後悔とでは全く異なります。


罪とは自分の考えを優先させ、神の言葉に聞き従わないことです。罪を悔い改めるとは、その考え方を変えることです。後悔し、反省しても、神の前に悔い改めなければ、全く意味がありません。


『神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 7:10)


イエス様は長老や祭司長たちの訴えに対し、何も弁明されませんでした。私たちも、神の前に正しく生きるなら、神が守られるので、言い訳する必要はありません。同時に、人を裁く権利もありません。神ご自身が悪に立ち向かわれ、正しく裁かれるからです。


『悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 3:9)


イエス様がエルサレム入城されるとき、群衆は「ホザナ!」と賛美していました。しかし、この時は、イエス様を「十字架につけろ!」と叫びます。それは群衆のリーダーである祭司長、長老たちを恐れていたからです。私たちの社会生活の中においても、様々な脅かしがあります。私たちが世の中に受け入れられようとして、世の中を恐れ、しがみついていると、そのうちに自分の本音がわからなくなります。神は私たちが世の中に惑わされず、自立したクリスチャンになるための方法はただ一つ、イエス・キリストにしがみつくことです。

すべての人は神と直接交わることができる―これを万民祭司と呼びますが、私たちが神との関係を築き、神の土台の上に立つ自立したクリスチャンとなるために大切なポイントがあります。


1.罪の悔い改め

自分の罪深さにどれだけ気づくことができるか、それが神との関係の深さにつながります。罪にも2種類あり、一つは体の欲求からくるもので、体が滅びてしまえばなくなるものです。もう一つは、体の欲求とは関係なく自ら選択するもので、一言でいえば「不信仰」です。実はこちらがやっかいで、神に対して直接犯す罪であり、神を悲しませ、体が滅びてもなくなるものではなく、私たちの心に沁みついてしまっています。罪の本質はこの不信仰であり、これが神との関係を拒否します。不信仰は「さばく」という行為になって表れます。自分がいかに神の言葉に反したことを思っているか、それに気付いたら神の前にへりくだることができ、神の愛を知るのです。


2.御言葉の実行

御言葉を実行せずに、神様との信頼は築けません。信じるとは、実行することです。出来るか、出来ないかということが問題ではなく、実行しようとしているか、神様はそれをご覧になっておられます。

『わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。』(新約聖書 ルカの福音書 6:47〜49)


3.問題にぶつかったらまず神に祈る

私たちは問題にぶつかったとき、まず神に祈っているでしょうか。人を頼りにしていないでしょうか。

『いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。』(新約聖書 ペテロ第一の手紙 3:14,15)


群衆は長老や祭司長たちの脅しに流されました。私たちにとっても、社会の様々なプレッシャーが脅しとなります。そんなときに必要なのは、イエス・キリストが私の主であると心の中で明確にすることです。私の主は誰か、私はは誰に仕えて生きているのか、それを告白し、神に祈りましょう。


自立を妨げるもの、それはさばくことです。さばけば、見えるものに支配され、私たちは弱くなります。世の中はさばくことで強くなると勘違いさせますが、私たちは愛することで強くなるのです。ですから、自分の中にさばく思いを見つけたなら、すぐに悔い改め、神の言葉に従って愛することを選んでいきましょう。