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2010年7月18日 礼拝メッセージ
『主を裏切ったペテロ』
(新約聖書 マタイの福音書 26章55〜75節)

イエス様が捕らえられると、弟子たちはみな逃げてしまいました。わずか数時間前にみなで過越の食事をし、自分は決して裏切らないと言っていた弟子たちです。ここからの場面は、イエス様がどうなるのか、遠くから見るペテロの様子を追っています。


『イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。しかし、ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まではいって行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。』(新約聖書 マタイの福音書 26:57〜58)


ペテロは遠くからイエス様について行きました。いつでも逃げられる距離を保っていたということです。他の人々に交って座っていたのも、自分がばれないようにするためです。つまり、彼の行動が意味するのは、人を恐れていたということです。心が神に向いていれば、心に恐れが来ることはありませんが、心が人に向いていると恐れがきます。


ペテロは、神を愛すると言いながら、人からよく思われることを第一にしていました。これを聖書では、二人の主人に仕えていると表現しています。それが彼の最大の問題であることが、ここで明らかになります。そして、このことはペテロだけでなく、私たちクリスチャンを苦しめる問題でもあるのです。


大祭司がイエス様に質問をし、イエス様がそれに答えて自分はキリストだと言うと、事態は一気にイエス様を殺す方向へと流れて行きました。それを見て、ペテロはさらなる恐怖に襲われます。そして、ペテロの存在に気付く人が現れ、彼は自分はイエス様とは関係ない、そんな人は知らないと、嘘をつきます。彼はイエス様を裏切るわけですが、彼を罪へと導いたのは恐れでした。


私たちは、困難な出来事に出会うと、そのこと自体が問題だと思い、出来事の解決が問題の解決だと思い込んでいますが、実はそうではありません。困難な出来事に恐れが伴う時、問題となるのです。困難な出来事にあっても、平安な心で対処するとき、それは問題とはなりません。ですから、問題の解決とは、出来事の解決ではなく、本当は恐れの解決を意味します。


私たちはなぜ恐れるのでしょうか。それは、傲慢さの現れです。傲慢とは、神よりも見えるものに頼ることであり、それにより恐れがきます。それに対し、謙遜とは、神の御手にすべてを委ねることです。つまり、恐れの解決は、神の御手の下にへりくだることです。


『ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 5:6,7)


ペテロは、嘘をつくことで恐れを解決しようとしましたが、イエス様を知らないと3度否定して鶏が鳴いたとき、イエス様に言われた言葉を思い出し、自分の罪深さ、情けなさを思い知らされます。彼はそれまでは行いを頑張ることで、他の弟子よりもイエス様に愛されていると自負していました。しかし、イエス様を明らかに裏切った今や、自分はすべてを失い、もはや愛される資格などないと失望のどん底です。そんなペテロに、イエス様は予想外のメッセージを送られます。


『ペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。』(新約聖書 ルカの福音書 22:60〜62)


イエス様はペテロを見つめられました。それは、「それでもわたしはお前を愛している」というメッセージでした。その愛に触れて、ペテロは激しく泣いたのでした。ペテロはそのこと以来変えられました。行いではなく愛される体験で、人は変えられます。彼の中にあった行いに人の価値を見出し、行いで愛されようとする肉の価値観が砕かれました。


自分の弱さや罪に出会うことは、神に出会うために大切なことです。どうしようもない自分に気付き、神に助けを求めるなら、神はペテロを見つめられたように、あなたを愛していると教え、慰め、励ましてくださるのです。その愛に触れる時、私たちは生まれ変わるのです。