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2010年7月11日 礼拝メッセージ
『剣を抜くペテロ』
(新約聖書 マタイの福音書 26章47〜54節)

『イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけした。イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」』(新約聖書 マタイの福音書 26:47〜54)


ユダはイエス様を裏切り、祭司長たちの手に渡します。これまでも見てきたとおり、彼はイエス様によって地位や富を得ることを求めていたのに、イエス様の目的が違ったからです。ただ、ユダが求めていたものは、実はこの世の中で誰もが求めているものです。人は富や地位を求めて生きています。そういったものを得て人からよく思われることで、自分の価値を確認したいからです。


別の福音書の同じ場面の箇所には、剣を抜いたのはペテロと書かれています。イエス様はそれを止め、別の箇所には、その場で耳をいやされたとあります。なぜペテロは剣を抜いたのか、彼がそうするにいたった3つの心理を通し、学べることがあります。


1.力で解決できると勘違い

人類の歴史の中で戦争が繰り返されてきましたが、戦争はまた新たな戦争を生むだけであったことがわかります。インドのマハトマ・ガンジーは非暴力を唱えましたが、力で解決するという常識に対し価値観を変えることを訴え、世界的影響を残しました。彼は聖書の影響を受けたといわれます。イエス様が言われたとおり、剣を取る者はみな剣で滅びるのです。


2.恐怖

イエス様は一二軍団よりも多くの御使いを配下に置くことができるのだと言われましたが、確かに神には私たちをどんな状況からも助ける力があります。だから、神に信頼するなら恐れる必要はないのです。しかし、私たちは神に信頼し委ねることができないため、恐れます。恐れは御心を妨げます。また、恐れから怒りが生じます。

『人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。』(旧約聖書 箴言 29:25)


3.敵を愛せない

ペテロにしてみると、祭司長たちは敵でした。しかし、イエス様にとっては敵ではなく、愛する対象でした。その証拠に、イエス様は十字架の上で、こう祈られました。 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23章34節)
私たちも、人を愛することができれば、すべての問題が解決するといっても過言ではありません。しかし、愛することがかくも難しいのはなぜでしょうか。


人を愛することが難しくなるのは、罪に対する誤解があります。神は罪を病気ととらえ、とその人自身とは切り離して見ておられます。神は私たちを行いと関係なく価値ある者と見て愛しておられます。しかし、私たちは罪をその人の価値ととらえてしまいます。それは、私たちが行い=人の価値ととらえる価値観を持っているからです。

罪がその人自身であるならば、罪と戦うこと=人と戦うことになってしまいます。しかし、神は人を愛しなさいと言われます。罪を滅ぼすために神は人を滅ぼすことはされませんでした。


『かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:15〜18)


罪は死がもたらした、顔にかけられた覆いです。この覆いが私たちに、罪は人から生まれたと信じ込ませています。そのため、人も自分も愛せないでさばいてしまうのです。


『罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。 だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:8,9)


この聖句が言っているのは、罪が悪魔から出ているということです。神が造られた人は完全ですが、罪という病気にかかったために、悪い行いをさせられているのです。人と罪の区別がつけば、人を愛せるようになります。


『兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:15)


神はなぜあなたの罪のために十字架にかかったのでしょうか。私たちは悪魔によってだまされて罪という病気にかかり、苦しんでいます。だまされたとは言え、苦しみの責任は私たちが負わなければなりません。神は私たちの苦しみをご覧になり、心痛められました。そして、この病気の原因を知っておられるがゆえに、自らのいのちを差し出し、私たちの身代わりになられ病気とその苦しみを担われたのです。