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2010年7月4日 礼拝メッセージ
『ゲツセマネの祈り』
(新約聖書 マタイの福音書 26章31〜46節)

いよいよ十字架にかかるために捕らえられるときを前にして、イエス様は弟子たちに、「あなたがたはみな、今夜わたしのゆえにつまずきます」と言われました。それに対し、ペテロをはじめ弟子たちは、自分は絶対につまずかないし、裏切らないと言います。しかし、ご存知のとおり、弟子たちはイエス様が言われたとおり、イエス様を裏切りました。このことは、行いによって評価され、愛されようとする弟子たちの価値観を決定的に砕くための布石となりました。


その後、イエス様はゲツセマネという場所に弟子を連れて祈りに行かれます。そこで、イエス様は「わたしは苦しみのあまり死ぬほどです」と言われました。イエス様はなぜこのように言われるほど、苦しまれたのでしょうか。それを理解するために、私たちは聖書でいう死を正しく認識する必要があります。


死とは分離を意味し、3つの分離があります。一つ目は、肉体の死であり、体と魂の分離です。二つ目は霊的な死で、魂と神との分離を意味します。そして最後に永遠の死で、神との永遠の分離を意味し、第二の死とも言われます。イエス様は十字架にかかることで肉体の死と霊的な死を迎えるにあたり、初めて経験する神との分離を恐れられたのです。


イエス様と違い、人は皆、生まれた時から霊的に死んだ状態です。それはアダムとエバが罪を犯したときから、生まれながらに神と分離した状態となったからです。霊的な死は次のことをもたらします。


1.死ぬほどの苦しみ

体は食べ物がないと死ぬほど苦しくなります。心も同様に神と離れた状態は苦しみをもたらします。


2.愛を求める

神と離れて苦しくなっている心は、神から得るべき愛を人に求め、人からほめられるために生きることになります。


3.自分をダメだと思う

人からの愛を得ようとしても、思うように得られなかったり、たとえ得られたとしても、一時的でもろいものなので、決して満足できません。そのため、いつも自分は愛されないという不満があり、いつも人の目が気になり、愛されないのは自分がダメだからだと思うのです。

イエス様が「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈らずにいられなかったのは、霊的な死がもたらすこういった心の苦しみを知っていたからです。

イエス様はその後、三回にわたって祈られ、霊的な死を迎えるにあたって心に平安を得ることができました。イエス様でさえ祈らずして大きな不安を乗り越えることはできませんでした。私たちにとっても、不安に打ち勝つ鍵となるのは祈りです。信仰によってしか、真の平安を得ることはできません。


イエス様と一緒に目を覚まして祈っていることができなかった弟子たちに、イエス様は「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。」と言われました。祈りは、不安に打ち勝つほか、誘惑に打ち勝つ鍵ともなります。祈っていられなかった弟子たちは、人の目を気にする誘惑に負け、イエス様を裏切りました。私たちも、伝道するとき、相手の反応や人の目を気にする誘惑にあいます。しかし、こういった恐れも祈りによって乗り越えるしかありません。また、私たちの祈りを助けるものとして、聖霊のバプテスマがあります。聖霊の助けで、私たちはより深く主と交わり、祈ることができます。クリスチャンである私たちは、神との関係を回復され、聖霊の助けもいただいているのですから、不安や恐れに際し、祈りによって神に力を与えられて進んでいきましょう。