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2010年6月27日 礼拝メッセージ
『最後の晩餐』
(新約聖書 マタイの福音書 26章14〜30節)

『そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。』(新約聖書 マタイの福音書 26:14〜16)


ユダはなぜイエス様を裏切ったかというと、彼がイエス様に近付いたのは、イエス様によって革命を起こし、富と名声を手に入れたかったからです。しかし、イエス様は「わたしは罪人を招くために来た」と言われ、彼の願うような行動を取ろうとはしませんでした。それで、彼はイエス様を見限り、裏切りに至りました。


『さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」イエスは言われた。「都にはいって、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう。」と言っておられる。』と言いなさい。」そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。』(新約聖書 マタイの福音書 26:17〜19)


過越とは、イスラエル人がエジプトから脱出する前夜のエピソードです。神がエジプトに災いを送られる際、イスラエル人には門に子羊の血を塗ってしるしとさせ、災いがその家を通り過ぎるようにされました。そのことを記念して、過越の祭りが祝われるようになりました。子羊の血は、イエス様が十字架で流された血を象徴しています。イエス様が弟子たちと最後に過越の食事をされたのは、これから起こる十字架のあがないというみわざが起こることの象徴的な意味合いがあります。


『さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。』(新約聖書 マタイの福音書 26:20〜25)


イエス様はユダがご自分を裏切ることを知っておられました。この場面では、弟子たちの前で名指しすることはせず、弟子たちには分からせず、ユダだけに分かるように悔い改めを促しています。25節でユダが「まさか私ではないでしょう」と言ったのに対し、イエス様が「いやそうだ」と答えているのは、原語の直訳とはニュアンスが異なります。正しくは「今自分で言っているでしょう」となるのですが、それだと分かりにくいために先の訳になったと思われます。ですから、弟子たちには悟られないまま、イエス様はユダに対し、あなたが裏切ることを知っていると告げ、それをやめるようメッセージを送っておられるのです。ここで誤解してはならないのは、十字架の贖いという神の栄光があらわされるために、ユダが用いられたのではないということです。ユダが裏切らなくても、イエス様は自ら捕らえられ、十字架で死ぬことを神のご計画として受け止め、従っておられました。ですからイエス様は、最後までユダを悔い改めへ導こうとされたのです。


『また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」』(新約聖書 マタイの福音書 26:26〜29)


ここで行われたイエス様と弟子たちの過越しの食事が、現在、私たちが行っている聖餐式のルーツです。イエス様はパンをご自分の体と言われ、分け与えられました。これは私たちがキリストの体の一部であることを意味しています。神はご自分の体の一部である私たちを愛するために造られ、いつも共におられ、助けてくださっています。聖餐式のパンは、そのことを忘れないためのパンです。また、杯を罪をゆるすために流されるご自分の血だと言われました。聖餐式のぶどうジュースは、罪赦されたことを忘れないためのものです。

過越の食事が終わると、イエス様と弟子たちは賛美を歌い、オリーブ山へ行きました。聖餐の恵みに預かった私たちに神が望んでおられるのは、すべてのことを感謝して生きることです。


『すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』(新約聖書 テサロニケ第一の手紙 5:18)


私たちはつらい出来事にあうと、誰かのせいにしてさばくということをしてしまいがちです。同じ出来事でも、対処の仕方で、信仰によって受け止め、感謝することもできます。神はすべてのことを感謝できる道を用意してくださいました。にもかかわらず、感謝できないのは、私たちの心に敵意があるからです。


『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:14〜16)


私たちが感謝することを妨げるもの、それは敵意です。しかし、十字架を見上げてよくよく考えてみてください。なぜ自分の罪が赦されたのか。それは、私たちの行いには関係なく、神が一方的に私たちをあわれみ、罪人のためにいのちを捨ててくださったのです。神は十字架によって、罪の赦しだけでなく、私たちを苦しめる敵意を廃棄し、神と和解させてくださいました。十字架の奥深さを理解するほどに、私たちは神の愛に気付き、すべてのことを感謝できるようにされます。