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2010年6月20日 礼拝メッセージ
『愛される理由を勘違い』
(新約聖書 マタイの福音書 26章1〜13節)

『さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」』(新約聖書 マタイの福音書 26:6〜13)


弟子たちは、女性に対して憤慨しました。彼らが言っていることは、いかにも正しいようですが、問題は怒ってしまう心の状態にあります。弟子たちは常に、イエス様に一番愛され、用いられることを競い合っていました。そのため、彼らにできないことをしたこの女性に嫉妬しています。この世の常識では、人から愛されるためには行いが必要です。しかし、神から愛されるためには、行いは必要ありません。それなのにこの世の常識で考え、神から愛されようとして行いをしてしまう、ここに勘違いがあります。

私たちが勘違いをやめ、神との関係を正しく認識するために、次のことを確認しましょう。


1.私たちは神の作品

神が私たちを造られたのは、愛するためです。私たちは何もしなくてもすでに愛されている存在です。しかも、神が私たちを愛しておられる最大の証があります。それは十字架です。

『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(新約聖書 ヨハネ第一の手紙 4:10)

ですから、神の愛はこれから獲得するのではなく、すでに愛されていることに気づく必要があります。気づいていないから、見当違いをするのです。


2.悔い改めを通して神の愛に気づく

聖書における罪とは、悪い行い以前の心の思いを指します。行いの前に必ず思いがあるからです。心の中の悪い思いが罪であれば、誰も逃れることはできません。みな罪人です。また、罪が自覚できなければ、どの御言葉でも実行しようとすれば、自分の弱さ、罪がわかります。そうした罪を神の前に正直に言い表し、ゆるされる体験をして初めて神の愛を知ることができるのです。


3.神と人との関係は、罪が赦されることで築かれる

人との関係においても、良いことをしてほめられて築いた関係は、何か問題があればもろく崩れます。そういった関係は、罪や弱さを隠します。揺るがない関係は、罪をゆるし合い、弱さを励まし合って築かれてゆきます。イエス様はご自分と人を医者と病人に例えられました。病人は自分の病気が重いほど、医者を必要とし、すべてをさらけ出して信頼するしかありません。医者である神は病人の悪いところ、弱さをすべて見て、何が何でも助けようとします。そこには不安がありません。

今回の箇所と同じ場面が別の福音書にもありますが、その中でイエス様がこの女性についてこう語っておられます。

『だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』』(新約聖書 ルカの福音書 7:47)


私たちには神から見ると多くの罪があります。それに気づけば、神をより愛するようになります。  人との関係でも特に家族ほど弱さが見える関係はありませんが、この世の関係のように行いを見てさばき合うと崩れます。主が言われたように、罪を見たらゆるし合い、弱さを見たら助けあうことで、家族の関係は揺るがないものとなります。


ところで、同じ場面をマルコの福音書でみると、イエス様はこの女性が立派なことをしたと言ってほめています。立派なことというと、人は、精一杯頑張って、無理をしてでも良いことをするようなイメージがありますが、イエス様は続けてこう言われました。

『この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。』(新約聖書 マルコの福音書 14:8)


無理をして頑張るのではなく、自分にできることをする、自分に与えられた賜物を用いることを神は望んでおられます。これは神に愛されるための条件や、救いの条件ではなく、地上での人生を賢く生きることです。