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2010年6月13日 礼拝メッセージ
『弱きものを大切に』
(新約聖書 マタイの福音書 25章31〜46節)

『人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』』(新約聖書 マタイの福音書 25:31〜40)



前回に続いて、賢い者として生きることがテーマとなっています。ここで語られているのは、救いの条件ではなく、救われた私たちがこの地上での人生を賢いしもべとして生きるとはどういうことかということです。私たちは、神によってこれまでの価値観を変えられることで、弱い者が大切に思えるようになります。それは、御心が見えるようになるからです。

神の御心は、無条件に愛することです。私たちが抱える問題は、神の御心が見えることで解決します。すなわち愛することです。


『神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:20)

『愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:8)



また、御心が見えないと、幸せが出来事と関連するものと勘違いします。幸せとは、神が共におられることであり、それ以外の理由はありません。神が共におられること、これがまさに神の私たちへの無条件の愛です。

そのことをよく表しているのが、放蕩息子の兄の話です。


ルカ15章に、有名な放蕩息子の話があります。放蕩息子の兄は父のもとで日々、真面目に働いていました。ところが、放蕩の限りを尽くして帰ってきた弟に対して父が怒るどころか宴会を開いて喜んでいるのを見て、彼は怒ります。そんな彼に対して父はこう語りかけます。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。・・・』


これは神から私たちへの語りかけです。この言葉が何を意味するかわかるでしょうか。神が共にいるというのは、ただ好きだから一緒にいるということではありません。私たちは神のいのちの一部であり、決して切り離せないのです。


『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:35〜39)



弱い者を大切にするというのは、同情することではありません。同情には、自分は大丈夫だから何とかしてあげようという傲慢な思いが隠れています。弱さを考えるにあたって、次の聖句を見てみましょう。


『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 12:9)


神は弱さのうちに働かれ、私たちのできないところを助けてくださいます。神は私たちの弱さを担うために来られたのです。そのことを受け止め、自分の弱さを認め、隠さず、神に助けを求めるとともに、家族や周りの人々の弱さを見たなら、それを恥とするのではなく、助けようと考える必要があります。弱さを恥とするなら、神を恥とするのと同じことです。弱いところこそ、神が働かれるすばらしいきっかけとなることを覚え、目を向けていきましょう。