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2010年6月6日 礼拝メッセージ
『愚かな者・賢い者』
(新約聖書 マタイの福音書 25章1〜30節)

『そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』

そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。(新約聖書 マタイの福音書 25:1〜13)



聖書は終わりの時があると告げています。また私たちは必ず死ぬので、それもまたお終わりの時ともいえます。いずれにしても私たちは必ず終わりの時を迎えなければなりません。終わりの時がいつなのか死がいつ訪れるのか誰にもわかりません。このたとえは、死(あるいは終わりの時)をいつ迎えてもよい心の準備ができているかという問いかけです。


たとえの中の油とは、神ご自身を象徴しています。油を用意していた賢い娘とは、神を信じていた者です。私たちにとって人生の最大の問題である死を迎えるという時、助けになるものは何でしょうか。富や経歴、そういったものは役に立ちません。しかし、私たちは役に立たないものを大切にし、本当に助けになるものをないがしろにしてはいないでしょうか。死という問題を乗り越えさせるものは、信仰だけであり、それを最も大事にしなくてはならないというメッセージがここにあります。


『天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、ト預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』

その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』・・・(中略)・・・ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』

ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』・・・』(新約聖書 マタイの福音書 25:14〜30)



私たちはこの地上においては、すべての物を神から預かって生きています。この体も、能力も、持っているものすべては借りものであり、いずれ神にお返しします。タラントとは、神から預かった賜物を指しますが、賢い者は地上においてそれを神のためにうまく用います。神もそれを望んでおられます。私たちが預かっているタラントをうまく用いるために大切なことを、このたとえの中の愚かな者を通して学ぶことができます。


1.臆病な思いと戦う

1タラント預かったしもべは、こわくなったと書かれています。賜物を用いることを妨げるのは、臆病な思いです。私たちが神から預かった賜物を代表するのは信仰です。信仰の賜物を用いて何かをしようとする時、恐れが来ます。聖書の言葉を信じて、何かにチャレンジするとき、福音を語ろうとするとき、私たちは失敗するのではないか、相手から拒絶されるのではないかといった恐れを持ちます。そんなときに、私たちはその思いと戦っていく必要があります。


2.神に愛されている経験を積み上げる

賢い人は、熱心に悔い改める人でもあります。神に最も用いられた人であるパウロは、自分は罪人のかしらだと語ったように、熱心に悔い改めていました。私たちはみな、神から見たら罪深い者ですが、神はそれを裁くのではなく、ゆるしたいといつも思っておられます。ですから、神の前に素直に罪を認め、悔い改めて祈るなら、神はゆるしてくださり、私たちは神の愛を身をもって知ります。パウロは熱心に悔い改めることで、愛される経験を積み重ね、それが彼の強さとなり、大胆に賜物を用いることができました。私たちもまた、罪を熱心に悔い改め、神に支えられている心強さが持てるまでに、神に愛される経験を積み重ねていきましょう。


3.信仰の賜物を家族に継承する

賜物を用いる第一歩は、家族に福音を伝えることです。人生における最大の遺産は信仰です。子が問題にぶつかったとき、助けになるのはお金ではなく、信仰です。私たちは救われて神の国に入ります。しかし、私たちの子や親、兄弟が神の国に入れなければどうでしょうか。


何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。


『だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。』(新約聖書 ヨハネ第一の手紙 5:14〜16)


ここに、信仰を何のために使うかが書かれています。神は、家族や友人、周りの人の救いを求めて祈りなさいと言われます。私たちが今神を信じて救われているのも、背後に祈ってくれていた人たちがいるからです。この地上で、賢いしもべとして生きるにあたり、まずは家族の救いのために祈ることから始めましょう。