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2010年5月16日 礼拝メッセージ
『偽善者達』
(新約聖書 マタイの福音書 23章1〜22節)

『そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。』(新約聖書 マタイの福音書 23:1〜5)


イエス様は人々に、パリサイ人、律法学者の言うことに従いなさいと言われました。それは、彼らが教会の指導者という立場にあるが故です。この先生は、社長は、立派だから従うというのではなく、その人の立場ゆえに従うものです。その際、人格といったものは関係ありません。聖書は一貫して無条件で愛しなさいと教えています。ところが私たちは、人に条件を付け、条件に合えば愛するという生き方が正しいと思い込んでいます。聖書に従い、相手がどんな人か関係なく愛する、それができないことに私たちは気づくべきです。


彼らの行いをまねてはいけません。とイエス様が言われたのは、それが「人に見せるため」だからです。たとえ正しいことをしても、そこに愛がないのなら何の意味もないと別の個所に書かれています。私たちは、よく思われたいという動機から何かをするということがないでしょうか。パリサイ人たちと同じ考え方が、自分にもあることに気づいたなら幸いです。


人はなぜ、よく思われたいのか、それを掘り下げると、見えるものに頼りたいという心理があります。それは、死への恐れから来ます。人は意識しなくても、死を恐れています。だからとっさに身を守る行動をするのです。死の不安から逃れるために何かにすがりたくて、人からよい評価を得ると、不安から一時解放されるのです。しかし、クリスチャンである私たちは、復活されたイエス・キリストを信じています。イエス・キリストにより、死の問題は解決され、もう死の恐怖から解放されているのです。


『しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。』(新約聖書 マタイの福音書 23:8)


ここで先生は、「裁判官」を意味しています。人は誰をもさばく権利はないという意味です。パリサイ人たちは人をさばき、人々もそれを当然と思っていました。しかし、神の目から見たら、すべての人が罪人です。罪とは、心の中の悪い倉から悪い思いを出すことで、それが行為に至ると誰もが罪と認めますが、神の目からは、悪い思い自体が罪です。罪人が誰かをさばくのはおかしいのです。そして、私たちが霊的に調子が悪くなる原因はただ一つ、「誰かを裁いている」ということです。さばくところに神の愛はないからです。人を愛せないのなら、私たちは祈り、神に助けを求めましょう。


『あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。』(新約聖書 マタイの福音書 23:9,10)


パリサイ人たちは、時として自分が神であるかのようにふるまっていました。しかし、私たちの神は天におられる方だけです。私たちも、自分はもちろん、誰か立派な人を神であるかのように崇めたりしてはいけません。また、「師」とは、手本とするという意味です。不完全な者である人を手本とするのではなく、イエス・キリストを手本としなければなりません。


『あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。』(新約聖書 マタイの福音書 23:11,12)


ここでも、神の見方と人の見方が全く違うことがわかります。私たちは自分を非常に良い者として見ているでしょうか。神はそのように私たちを見ています。しかし、私たちは自分は良くないと見ており、良くならなければならないと思っています。だから、見えるものに頼り、心を満たそうとするのです。しかし、生き方を変えたいなら、ここにあるように仕える者になりましょう。仕えようとするとき、神に心が向いて行くのです。


『しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。』(新約聖書 マタイの福音書 23:13)


神から見てパリサイ人たちの生き方、すなわち私たちのうちにもあるパリサイ人的ものの考え方は、天の御国をさえぎるもの、つまり神の御心を見えなくさせるものです。イエス様が戦っていたサタンとは、私たちのものの考え方です。すなわち行いに価値を置き、良く思われようとする生き方です。それが神と私たちを引き離します。私たちが自分を良い者と見れず人を無条件に愛せない、そんな物の見方をするメガネを持っていることが問題なのです。まずはそのメガネに気付くことが大切です。人を愛そうとするとすぐにわかるでしょう。


16〜22節でイエス様はパリサイ人たちが祭壇や供え物を指して誓うことに関する教えの愚かさを指摘しています。大切なのは見えるものではなく神ではないかと問いかけています。見えるもので判断するのではなく、何のためにするのかその本質を見る必要があります。


イエス様はパリサイ人たちのずれたものの考え方を指摘してこられましたが、これらがみな、私たちのうちにもあることにまずは気づき、悔い改め、神に助けを求めましょう。神は少しずつ、私たちの物の見方を神の物の見方へと変えてくださいます。