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2010年5月9日 礼拝メッセージ
『神の戒め』
(新約聖書 マタイの福音書 22章23〜46節)

復活を信じないサドカイ派の人たちが、イエス様を論破するために質問を持ってきました。モーセの律法では、子がないまま夫に先立たれた妻は、夫の弟がめとり、子孫を絶やさないようにするとのことでした。しかし、弟も子がないまま死に、その次の弟も、またその次の弟も同様に死んだ場合、復活の際、妻は誰の妻になるのかという質問です。これに対し、イエス様は、人は復活の際、婚姻関係はなくなり、天の御遣いのようになると言われ、彼らの思い違いを指摘しました。


イエス様は逆に彼らに言われました。出エジプト記に神が語られた言葉として、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあります。彼らはすでに死んでいたのですが、「アブラハムの神…であった」と過去形ではなく、「である」と現在形で書かれています。また、神は死んだ者の神ではなく、生きているものの神であるとあるのだから、アブラハム、イサク、ヤコブは復活して生きているのではないかという問いかけです。これには、サドカイ人たちも何も言い返せませんでした。


このことを聞いて今度はパリサイ人たちが、イエス様の上げ足を取るためにやってきました。そして、律法の中で大切な戒めはどれかと質問します。それに対してイエス様はこう言われました。


『「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」』(新約聖書 マタイの福音書 22:37〜40)



神の戒めは「愛する」という一言に集約されます。しかし、それが難しいのです。人は自分が価値あると認めたものを大切にします。人に対しても同様で、価値があると認めた人を愛することができます。しかし、私たちには人の本当の価値が見えていないのです。もっと言うなら、自分の価値が見えていないのです。自分に価値を認められなければ、人にも神にも価値を見出すことはできません。


神が人を創造されたとき、神はご自分のいのちの息を吹き込まれました。これがコンピュータでいうハードウェアです。そして、私たちの遺伝子情報や、日本語を話し、日本文化を持つ、そういったことはソフトウェアです。私たちの能力もすべてソフトウェアです。それらのソフトは皆、ハードがあってこそ機能します。人はソフトで価値を判断しますが、神はソフトには何の興味も持っておられません。神が見る人の価値は神のいのちを宿しているハードの部分にあります。


さらに、人は罪を犯して神を離れてから、神がもともと供えていた「良心」というソフトウェアがサタンのウィルスによってうまく機能しなくなってしまいました。しかし、もともとのハードは何も損なわれていないので、ソフトを修復すればまた回復するのです。


私たちが愛する者となるカギは、一人ひとりのうちに神のいのちが宿っていることに気づくことです。だから神は私たちの行いにかかわらず、どんな罪を犯そうと赦されます。そして、私たちは赦される体験を通して、神の愛を知ります。この世で滅びないのは神のいのちだけです。永遠なるものに目を留めることが、人を愛し、神を愛する道です。


『「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」』(新約聖書 マタイの福音書 22:42〜45)


イエス様はさらにパリサイ人たちに尋ねて言われました。現在では「キリスト」と言えばイエス様を指す固有名詞のように使われていますが、当時は「救い主」を意味する一般名詞でした。パリサイ人たちはイエス様がキリストであるとは認めませんでしたが、旧約聖書にキリストがダビデの子孫として生まれると書かれているのを信じていました。しかし、それは軍事的、政治的リーダーとして、イスラエルの国を建て上げる王のような存在を期待していました。だから、そんなことを一切しようとしないイエス様を認めなかったのです。しかし、イエス様はダビデの言葉を通して、ダビデがキリストのことを私の主と呼び、神として見ていることを指摘し、パリサイ人たちの持つキリスト像を否定されました。


上の聖句の中に、御霊(聖霊様)、主(父なる神)、私の主(子なるキリスト)と神をあらわす3つの存在が登場します。これは三位一体の神をあらわしています。その中の、御霊について説明します。


『いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 2:11)

『しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 12:11)

『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:26)



上の二つの聖句から、御霊が父なる神、子なる神同様、人格を持つ方であることがわかります。さらに、御霊は私たちの祈りをとりなし、直接かかわってくださる方であることがわかります。


再来週はペンテコステ(聖霊降臨日)にあたりますが、最初に聖霊(御霊)がこの地上に来られる時の様子が使徒1,2章に書かれています。イエス様が天に昇られる前に、弟子たちに、聖霊のバプテスマを受けるのを待っていなさいと語られました。(ルカ24章49節、使徒1章4〜8節)そして、実際にそれが起こったのが使徒2章です。弟子たちは聖霊のバプテスマを受けてから、力強く伝道し始めました。


聖霊のバプテスマは、求めるならすべてのクリスチャンに与えられます。日々、聖霊に満たされることで、生きた神様を実感することができます。どこか力が出ないと感じるのなら、聖霊のバプテスマを受けて、日々、御霊に助けられて歩んでいきましょう。