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2010年5月2日 礼拝メッセージ
『言葉の罠』
(新約聖書 マタイの福音書 22章1〜22節)

『イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』

ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。

ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」』(新約聖書 マタイの福音書 22:1〜14)



イエス様は天の御国をたとえ話で説明されました。祝宴を催した王は神のことです。神は招待客を招くために人を遣わしますが、招待していた客たちは祝宴へ出かけることよりも仕事や自分のしたいことを選びました。そればかりか王が遣わした人たちを殺した者もいました。招待されていた客とはユダヤ人を指します。彼らは神が預言者やイエス様を通して呼びかけられるのを聞いても拒否しました。


私たちクリスチャンは、人の言葉には喜び、神の言葉を軽んじていないでしょうか。
招待客に拒否された神は、出会った人誰でも招くよう人を遣わします。これは福音がユダヤだけでなく全世界に広がったことを示しています。それで祝宴に人が集まり始めますが、その中に礼服を着ていない人がいて、その人は外へ追い出されました。礼服とは、神のあがないを指します。神の国に入るには、罪を覆い隠す礼服が必要です。それは私たちの身代わりに罪の罰を受けてくださったイエス・キリストを信じることです。礼服を着ていなかった人は、神に近付く目的を間違っていました。私たちは罪を赦していただくために神に近付くのであって、ご利益を求めるためではありません。


『そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談した。彼らはその弟子たちを、ヘロデ党の者たちといっしょにイエスのもとにやって、こう言わせた。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」

イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。 』(新約聖書 マタイの福音書 22:15〜22)



パリサイ人たちは、イエス様を言葉の罠にかけようと相談していました。そのように、私たちにもサタンによって言葉の罠が仕掛けられています。その目的は、私たちの心に怒りを生じさせることです。怒りが敵意を生み、すべての悪を引き起こし、人の苦しみの原点となるからです。怒りを起こす方法は、人がそれぞれ異なる物差しを持っていることを利用します。罠に対処するためにカギとなるのは、相手を怒らせないこと、そして自分も怒らないことです。次に、罠に落ちないための具体的な対策を3つあげます。


1.親切で優しい言葉を語る

『あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 4:6)

私たちが、御言葉に沿った内容で優しく語るなら、主が語るべきことを教えてくださいます。そのようにして、相手の心に怒りが起きないように配慮する必要があります。


2.許す

『もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 2:10,11)

私たちは許せないという思いを抱えると、それが怒りとなり、1次被害、2次被害を引き起こします。ここにもサタンの策略とはっきり書かれています。私たちは、とにかく許し、怒りを起こさないことが必要です。

『そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 6:7)


3.自分を正しく認識する

怒りは、自分の物差しと相手の物差しに違いを感じた時に生じます。そして、怒りは2つの方向に向きます。外側に向く時はカッカしたり怒鳴ったりといった表面に現れるのでわかりやすいのですが、内側に向くと、自己卑下や自分を責める行為となります。これは謙遜にも見えますが、自分に対する怒りというのは、自分を駄目だと思い込む、神の物差しと相反する罪であり、謙遜でもなんでもありません。実は自分を駄目だと思わせることがサタンの最大の罠です。

私たちは自分が神にとってどういう存在なのか、正しく認識し続ける必要があります。人の褒める言葉にも優って素晴らしい存在として神は私たちを造られ、いつもそのように見ておられます。いつでも神はどう思われるのかと、神に心を向けましょう。