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2010年4月25日 礼拝メッセージ
『祭司長の価値観に驚き』
(新約聖書 マタイの福音書 21章23〜46節)

『それから、イエスが宮にはいって、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った、「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか《。 イエスは答えて、こう言われた、「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によってこれらのことをしているかを話しましょう。

ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか《。すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったのか、と言うだろう。 しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから《。 そこで彼らはイエスに答えて、「わかりません。《と言った。イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに話すまい。』(新約聖書 マタイの福音書 21:23〜27)



祭司長、民の長老たちは、イエス様の問いかけに対し、答えに窮し、出した結論は、「わからない《という答えでした。ここでポイントとなるのは、彼らの考え方の基準です。彼らは真実が何かという基準ではなく、自分たちの立場がどうなるか、人からどう思われるかという基準で答えを出したのでした。しかし、その考え方が彼らを追い込んだのです。私たちもまた、自分がどう思われるか(よく思われたい)という基準で物事を判断していないでしょうか。それによって、自分で自分を苦しい状況に追い込んでいるのではないでしょうか。


このエピソードを通して、イエス様は、私たちの苦しみの原因がものを考える基準、物差しにあるのだということを明確に示しています。さらにそのことに関連して、次の例え話をされました。


『ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。

ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。《彼らは言った。「あとの者です。《イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。

というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。』(新約聖書 マタイの福音書 21:28〜32)



ここで、父親は神を指し、兄は祭司長たちを指しています。兄は良い返事をしたにもかかわらず、実際は父に従いませんでした。兄は、世の中で善人と呼ばれる人です。口では調子よく良いことを言います。しかし弟は父に反抗しました。そういう人は、世の中では罪人と呼ばれます。しかし、自分が罪人だとわかっている人たちは、素直に悔い改めることができます。それに対して、自分が社会的にも認められ、善人だと思っている人は、自分の罪を認めることができません。


私たちは、容姿、行い、すべて外側にあらわれるもので人の価値を判断しています。だから、良く思われるために外側を良くしようとして生きています。それは、愛されたいと強く願っているからです。なぜ、私たちが愛されたいと強く願っているかと言うと、本来、人は神と深く交わり、神により心が満たされていたのに、罪を犯したことにより神との関係を断ち切られました。そのため、再びかかわりを求めて、行動するようになったのです。しかし、その行動に終わりはありません。人は行いによっては決して満足する関わりを得ることがないからです。


神は私たちの価値観を変えたいと思っておられます。なぜ、自分の価値を外側のちっぽけなものに置き換えてしまうのか。神は私たちをそんなものにかかわらず無条件に愛しておられるのです。私たちはもうすでに神に愛される価値ある者なのです。イエス様はまた別のたとえによって、解決の道を示されました。


『もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。 さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。 すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。

そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。

このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。《彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を紊める別の農夫たちに貸すに違いありません。《イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、上思議なことである。』

だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。《』(新約聖書 マタイの福音書 21:33〜44)



ぶどう園の主人は神を指し、その息子はイエス様を指しています。農夫たちは祭司長たちです。このたとえを通して、イエス様は、行いでは人は救われないということを言っています。どんなに行いを良くしても、神はそんなことを見てはいない。人の価値はそんなものではかれるものではない。ただ、神が遣わしたイエス・キリストを信じることで救われるのだということです。祭司長たちは、自分の行いを良くすることで、人から認められることをいつも求めていました。しかし、自分の罪を認められず、救いにあずかることができませんでした。私たちも外側を良くする生き方をなかなかやめられません。それは愛されていないと思うからです。


私たちも祭司長たちと同じ問題を持っています。自分が神に愛されていることを知らずに、人から愛されることを求めて外側を良くしようと頑張って、認められることで安心します。それは私たちを愛しているという神の言葉をまだ信頼できていないのです。人は「自分は愛されていない、ダメだ《という価値観で生きているので、そのような生き方をしているのです。しかし人が神との関係を断たれてしまったのは、愛されていないからではなく、罪の結果でした。愛されるために頑張る生き方には解決がありません。求める満足は得られないからです。解決は自分の罪を認め、悔い改めることで、神との関係を回復することです。


私たちは、イエス・キリストの十字架を正しく理解する必要があります。死には二つの意味があります。一つは肉体の死、もう一つは、たましいの神との分離です。イエス様は十字架の上で苦しみもだえられました。それは、肉体の苦しみによるものと言うより、神との関係を完全に断ち切られることへの恐れ、苦しみでした。イエス様は、そのような罰を私たちの代わりに受けてくださったのです。そして、イエス・キリストが十字架によって自分の罪をゆるしてくださったと信じることによって、神との分離状態から、私たちを回復し、再び交わることができるようにしてくださったのです。さらに、イエス様を信じる者には永遠のいのちを与え、肉体の死の先の命を回復してくださいました。


このことを信じる時、私たちは自分がこれほどまで神に愛される価値があることを知ります。そのことが本当にわかると、私たちの人に対する対応も変わります。人の反応によって、自分の価値が変わったかのように一喜一憂することはもはやありません。私たちは神から見たら間違った価値観に汚染された病人です。病人に対して、神は、お前が悪いのだと責めるのではなく、愛されているということを知って抵抗力をつけさせ、病の根源である間違った価値観を取り除くことができるように、導いてくださるのです。


「自分は愛されていない《という間違った価値観こそがあらゆる罪の原因とも言えます。愛されていないと思うから人はわるいことをしてしまいます。間違った価値観によってそうさせられているのです。この価値観を取り除くたに、イエス様は十字架にかかられました。私たちは神に愛される素晴らしい存在です。そのことを本当にわかって生きることを神は願っておられます。