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2010年4月18日 礼拝メッセージ
『強盗の巣にしている』
(新約聖書 マタイの福音書 21章12〜22節)

『それから、イエスは宮に入って、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」』(新約聖書 マタイの福音書 21:12〜13)


主は、宮の中で商売をしていた者達をみな追い出し、彼らの商売道具を倒し始めました。今まで見たこともない、主の激しい行動です。主は、この事を通して、私たちに何を教えたかったのでしょうか。これを解くカギは、「宮」の意味にあります。 「宮」というのは、神と交わる場所として作られました。そこでは神への礼拝が捧げられます。「宮」とは、神の家を象徴するものであって、この神の家である宮は、私たちの体にもあります。私たちの心に主の宮があり、神の永遠のいのちを受け、神と交わる場所が用意されているのです。


『あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 6:19)


主は、その宮を、富を求める場所とさせてはならないと、徹底的に排除されました。私たちの心はどうでしょうか。神は、私たちの心が、富を求める場所となってはいないでしょうか、富を得ることで心に満足を与えていないかと、問うているのです。神の宮は神に祈りを捧げ、神と交わる場所であり、神からの愛で満たす場所です。


金儲けを人がする目的は、自分の価値をそれに置き換えることで、心に安心を手に入れるためです。人は「死」という不安を抱えて生きています。その不安から逃れようと、見えるものにすがり、そこに自分の価値を置きます。富を得ても、死が解決するわけではないのに、必死で富を追い求め、自分の価値をそこに見ては一時の安心を得ます。「富」とは、お金だけを指すのではありません。その人にとって一時の安心を与えるものは何でも富と言えます。金儲けする心も、弟子達が偉くなりたいと求める心も、見えるもので安心を得ようとする価値観から発しています。これが神の言葉をふさぎます。この価値観の象徴である金儲けを宮から追放することで、見える物にすがるのはやめなさい。自分の価値を見える物に置くのはやめなさい。あなた達は、それよりももっと素晴らしい者なのだからと主は言いたいのです。


『主は、神にも仕え、富にも仕える事は出来ないと語られた。』(新約聖書 マタイの福音書 6:24)


死から来る心の不安を、見える富で満たすのか、それとも目に見えない神で満たすのか、どちらかの選択しかないといっています。富に仕える事で、見える物に頼れば頼るだけ神から離れていくからです。逆に、神に頼れば頼るだけ、富に仕える心は滅びていきます。進む方向がまったく異なるからです。


人は、一生懸命に見える物にすがるので、何を食べようか、何を着ようかと心配がつきません。いつも自分の命のことで心配します。心配したところで、やがて訪れる死を誰も逃れられないのに、自分で何とかしようとするのです。そんな人々に主はさらにこう語られました。


『しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。』(新約聖書 マタイの福音書 6:29)


歴史上、ソロモンほど財をなした人物はいないかもしれません。彼は誰も手にしたことのない巨万の富を持っていました。人々はそれを見て、ソロモンは価値がある素晴らしい人だと賛美しました。しかし神から見ると、ソロモンの素晴らしさは、そんな富と比べることはまったく出来ません。富などまるでゴミのようにしか見えないのです。花の一つほどにも着飾っては見えないのです。神が造られた人間は非常に良い者であって、そんな見える物で誇れば誇るだけ、神からは惨めに見えるのです。どうしてそんな価値のない見える物で、やがて滅んでいく見える物で、自分の価値を見るのかという気持ちです。あなたはどんな物よりも優れた素晴らしい者なのに、どうしてそんな物に頼り、そんな物に仕えて生きるのかと、神は言いたいのです。


神からしてみると、この世の価値観こそが戦うべき敵です。弟子達を惑わす敵なのです。その敵が、心の神の宮を占領しているのですから、必死に宮で商売をする者達を追い出したのです。


イエス様は、その後ベタニヤに行き、再び都に戻る途中に空腹を覚えられました。道ばたにいちじくの木がありましたが、葉の他には実はありませんでした。そこで主は言われました。「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」(マタイ21:19)するとたちまち、その木は枯れてしまいました。お腹がすいて、木に実がなっていなかったからという理由だけで枯らしてしまうなど、あまりに自分勝手と言えば自分勝手です。イエス様は、なぜこのようなことをされたのでしょうか。


『イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」』(新約聖書 マタイの福音書 21:21,22)


主は、木を枯らした後、何でも願ってごらんなさい。山でも動きますよと言われました。山を動かすなど自分勝手にも程がありますが、信じれば出来るから求めてごらんなさいと主は言われたのです。その目的は、彼らの心を、強盗の巣から、祈りの家に変えるためです。


この頃、弟子達は、主を神だと信じていましたが、神に対する信頼という信仰の成長の側面においては、まだまだ不足していました。ですから、主がいくら神の国ではみなが同じ価値で、みな神の目には愛される素晴らしい存在ですよ。と語っても、理解できませんでした。頭では分かっても、心から信じることができていたわけではなかったのです。これでは彼らの価値観は変わりません。強盗の巣のままです。強盗の巣から、祈りの家に変えるには、神の言葉が心から信じられる信仰を育てなければならなかったのです。


私たちも、イエス・キリストを救い主なる神と信じているからと言って、聖書の言葉を心から信じているかというとそうではありません。病気になったとき、神は癒すと約束していますが、心から信じることができるでしょうか。風邪程度なら信じることができても、ガンならどうでしょうか。あなたが問題に直面したとき、神が必ず助けてくれるという約束を信じることができるでしょうか。


あなたが将来のことを心配したり、不安になったりするのは、「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:34)と言われた神の言葉を信じることができないからと認められるでしょうか。もし信じていたら、心には全く不安も恐れもありません。イライラすることもなく、何を言われようが平安でいられます。全てのことを心から感謝できます。汝の敵を愛せます。しかし、出来ません。それは、神の言葉、約束を、心から信じ切れていないからです。信じるには、神の存在を認めるだけでは足りません。神への信頼を強くしなければなりません。祈り求めれば、神が答えてくださる、という経験、これが神への信頼を強くしてくれます。ですから、イエス様は、自分勝手な祈りを、敢えて弟子たちの前で見せたのです。


分かりやすい譬えを話しましょう。ピアノを弾くには練習が必要です。練習を積んだ人はどれもある程度弾けますが、弾けない人は、どの曲も弾けません。楽譜だけ読めても、指が動かなければ弾けないのと同じです。聖書はちょうどピアノの楽譜集のようなものです。難しい曲が弾ける人は、聖書という楽譜のどの教えに対してもそれなりに弾けます。聖書という楽譜を読んでいるだけでは弾けるとは言わないのです。弾けるようになるには練習しかないのです。


聖書の言葉を信じるのも同様です。人が神の言葉を信じて、それに神が答えられるという練習が必要になります。ピアノは一般に赤のバイエルという練習曲から初め、次に黄色のバイエル、そしてチェルニーと進みます。私たちの信仰も、赤のバイエルの段階からです。一番やりやすい信仰のチャレンジが、今ここで主が語られた言葉です。「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」要は、何でも良いから求めてごらんなさいというこのチャレンジです。自分が欲するものを求めることは、誰にでも出来るでしょう。自分のためにするのですから、あきらめずに祈り続けられます。それでよいのです。神に祈ることで、本人は気づかないけれども、心が祈りの家になっているのです。そして、主はその願いに応えてくださります。答えられたことを通じて、神への信頼が強くなるのです。するとさらにチャレンジしたくなり、また主が答えてくださります。神の御言葉が徐々に自分の心に消化されていき、神が私たちを愛しているという言葉が、だんだん心にしみこんでいき、律法の価値観が壊されていくのです。


弟子達はかつて、背伸びをし、難しい病の人のために祈り、失敗したことがありました(マルコ9:14−29)。失敗した理由を主は、祈りがなかったからと言われました(マルコ9:29)。弟子達は、神に本気で祈り求めるという、信仰のチャレンジをしていなかったのです。背伸びをしていたから、もう二度と恥をかきたくなかったから、神に祈り求めるという信仰は、封印していました。でも、自分のことでも何でも祈って求めて良いと言われると、祈りたくなるものです。主がいちじくの木を枯らしたのだから、そんな自分勝手な事からでも良いなら祈ってみたくなるのです。主はあえて自分勝手な奇跡を見せ、彼らに信仰のチャレンジを促したのです。弟子達も、いちじくの木を枯らすような、自分自身のことでも神に求めて構わないのだと励まされた事でしょう。赤のバイエルからの練習です。


心を強盗の巣から、祈りの家にすべく、主は私たちを導いてくださっています。まずは、祈り求めることから始めてみましょう。