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2010年3月28日 礼拝メッセージ
『2種類の懇願』
(新約聖書 マタイの福音書 20章17〜34節)

『さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」

けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」

このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」』(新約聖書 マタイの福音書 20:17〜28)



イエス様は、これから起こる重要なことを語られました。しかし、そんなことには構わず、ヤコブとヨハネの母親が、イエス様に息子たちの出世を求めます。さらに、それを聞いたほかの弟子たちは、ヤコブとヨハネに出し抜かれたと思い、腹を立てます。ここでも、弟子たちの関心がいつも自分が偉くなることにあったことが如実に表れています。それに対し、イエス様の関心は、すべての人のための十字架によるあがないにありました。


人は例外なく自分はだめだと思っています。だから、人と比べて優っていると思うと喜び、劣っていると思うと落ち込みます。出世を求める心も、セルフイメージの低さを表しています。イエス様から直接、多くの御言葉を聞いても、それが知識である限り、人は変わらないのです。必要なのは、神に愛される体験です。それはこれまでも学んできたとおり、悔い改めを通して体験します。神の愛に満足すると、他の物は不要になります。他人への嫉妬もなくなり、むしろ心から幸せを願うようになります。


私たちも最初は弟子たち同様、御言葉が知識でしかなく、悟ることがなく、自分のことばかり求めます。しかし、試練に出合った時、自分の弱さ、罪を示された時、御言葉を悟ることができるのです。神に対する信頼が増し加わり、次第に私たちは変えられるのです。


イエス様は弟子たちに、偉くなりたい者は仕える者になりなさいと注意されました。それがイエス様にならうことだと。結局、母親の願いは聞かれませんでした。


『彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫び立てた。

すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。』(新約聖書 マタイの福音書 20:29〜34)



二人の盲人はイエス様に癒しを求め、聞き入れられました。なぜ、弟子たちの母親の願いは聞き入れられず、盲人たちの願いは聞き入れられたのでしょうか。その違いは、動機にありました。母親は息子たちが頑張っているので、その報酬として地位をいただきたいと、行いに対する報酬を求めました。まさに、行いによって価値を判断する物の見方であり、神の恵みによるものの見方とは真逆のものです。


『願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。』(新約聖書 ヤコブ人への手紙 4:3)


それに対し、盲人は、ただあわれみを求めました。彼らが盲人であったということから、大切なことが見えてきます。それは次の3つのことです。


1.見えるものの価値がわからない

彼らは目が見えないので、物を比べようもありません。自分には誇るものもなく、偉くなろうという願望も出てきません。

『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』(新約聖書 マタイの福音書 5:3)

心の貧しい者とは誇るものがない人のことです。


2.自分の無力さを知っていた

自分の力に頼れないので、ただ憐みにすがるしかないことをよくわかっていました。

『悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。』(新約聖書 マタイの福音書 5:4)


3.本物の愛が必要

彼らは見えるものでごまかされることがないので、本当に心を満たすことのできる本物の愛が必要です。

『義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。』(新約聖書 マタイの福音書 5:6)


私たちは、盲人と同じ立場だということを、どれだけ分かっているでしょうか。私たちは必ず死ぬ存在です。死んだら財産も何もすべて消えます。神に対して、これだけの代償をするから報酬をくれなどと取引できる立場にはないのです。死を待つ海に浮かびながら、上からの助けを待ち、憐みを求めるしかできないのです。それなのに、行いによって何かを求めることができると錯覚しているのです。


私たちは、神と自分の関係に早く気づくべきです。そして、神にあわれみを求めるなら、神は無条件に、ただ恵みによって私たちを救い出してくださるのです。