ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2010年3月21日 礼拝メッセージ
『あなたは良いものとして造られた』
(新約聖書 マタイの福音書 20章1〜16節)

『天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。

また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』

こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」』(新約聖書 マタイの福音書 20:1〜16)



19章で、出世という報酬をもらうために頑張るという弟子たちの動機が明らかになりました。私たちもまた、「自分はだめだ」→「よく思われたい」→「頑張る」→「報酬」という図式で、何らかの報酬を求めて行動しています。そんな私たちの思いを変えるために、イエス様は今回のたとえを用いられました。


朝から働いていた労働者たちは、一時間しか働かなかった人と同じ賃金では不当だと言いました。しかし、主人は約束通りにしただけであり、不当なことはしていません。私たちも、神に対して不当だというのは、自分で善悪を判断して自分を正しいとし、神の言葉に反対しているのと同じことです。


人は善悪を知る知識の木の実を食べて以来、自分で善悪を判断して、神の言葉を退けました。その結果、人の心に恥、恐れ、責任転嫁が生じました。(創世記3章参照)神は、人をお創りになったとき、「非常に良かった」と言われました。(創世記1章31節)しかし、人は、自分の裸の姿を駄目だと判断して恥じ、よく見られるために裸を隠したのです。善悪というものはそもそも神が判断するものであるのに、人は自分の見た目ですべてを判断して、自分のことを駄目だと思いこみ、自分がよく見られるために行動をするようになりました。その生き方が人に苦しみをもたらしているのです。


人をパソコンに例えるなら、パソコン本体は良いものとして造られているのに、プログラムが間違った判断をするために、不具合が生じているという状態です。この状態を変えるには、プログラムを書き換える必要があります。それは具体的に次の3つの作業になります。

1.さばかないこと

さばくことは、人を「ダメだ」と決めつける行為です。自分のことにしても他人のことにしても、さばいてしまうと「ダメだ」という情報が書き込まれることになります。「ダメだ」という情報はがん細胞のようなもので、さばくほどに増殖していきます。まずは、がん細胞の増殖を防ぐことが必要です。


2.御言葉を実行する

次に、間違った情報を消していく作業となります。御言葉を実行することで、それを妨げる自分の罪を示されます。自分の罪深さを知り、それを悔い改め、ゆるされる体験をするたびに、間違った情報は消去されていきます。人に知られたら絶対に嫌われてしまうようなことも、神はゆるしてくださり、変わることなく愛してくださることを知る時、「自分はダメだ」という自分の判断基準とは全く別の判断基準があることに気付き、これまでの自分の判断基準の間違いに気付くのです。


3.御言葉の情報を入れる

さらに、新しい情報を入れていく必要があります。それは一度だけでは元の情報量に負けてしまうので、何度も繰り返し覚えさせる必要があります。神が自分を無条件に愛しておられるという情報がしっかりと植えつけられるように、聖書をよく読み、祈り、実行します。聖書の考え方が入ってくるほどに、私たちの中で間違った考え方は弱くなり、影響力が小さくなっていくのです。