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2010年3月14日 礼拝メッセージ
『それは人にはできないが神にはできる』
(新約聖書 マタイの福音書 19章13〜30節)

『そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。』(新約聖書 マタイの福音書 19:13〜15)


弟子たちが子供たちを邪魔したのは、当時の社会通念として、子ども達を価値のない者と見なしていたからです。子ども達は良い行いができません。良い行いをしなければ救われない。だから、良い行いができなければ価値がない。こういったものの考え方が常識でした。しかし、イエス様は天国はこのような者たちの国だと言われ、彼らの考え方が間違っていることを暗に示しておられます。子どもには誇れるものが何もありません。ただ神にすがるしかありません。しかし、それこそが神の国に入る道なのです。


『すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」

彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。』(新約聖書 マタイの福音書 19:16〜22)



この青年もまた、行いで救われると思い込み、自分の行いが完璧だと錯覚しています。しかし、行いでは救われないこと、また、行いも完璧にはできないことをイエス様は悟らせようとしました。また、当時、金持ちは神に祝福された人であり、天国へ行けると認識されていました。人々にとって、金持ちは行いに価値があることの象徴的存在です。イエス様はその考え方を壊すために、続けて語られました。


『それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」』(新約聖書 マタイの福音書 19:23〜26)


富は天国への道であるどころか、障害となるものだとイエス様は言われました。また、天国に入ることは、どんな行いを持ってしても人にはできないとも言われました。常識を覆された弟子たちは非常に驚きます。そしてイエス様は、救いが神の働きであることを言われます。人はどんなことをしても自分の力では救われず、ただ神から救いの恵みを受け取るしか、救いの道はないのです。


『そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。』(新約聖書 マタイの福音書 19:27〜30)


ペテロは、イエス様が言われたことを理解せず、金持ちの青年が救われないのは、すべてを捨てることができなかったからだと捉えました。そして、自分はすべてを捨てたから報酬がもらえると思っています。ここに彼がイエス様についてきた動機が見えます。弟子たちにとって、誰が一番偉いかということがいつも重要でしたから、イエス様について行くことで偉くなるのだと思っていたことでしょう。ペテロは後にイエス様を裏切りますが、その前に彼はどんなことがあっても裏切らないと言いました。彼は自分の限界もまだ分かっていません。


イエス様は、永遠のいのちのことを言われました。永遠のいのちとは、キリストのいのちにたましいが接ぎ木されることです。さらに、このいのちは成長します。接ぎ木されるのは、「信仰」によって神との関係が回復することであり、これは永遠のいのちを得ただけの状態です。さらにいのちが成長するというのは、神に従うという「行い」を通し、罪に気づかされ、悔い改め、ゆるしを体験し、神への信頼が深くなることです。


『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。ヨハネ』(新約聖書 ヨハネの福音書 10:10)


永遠のいのちとは、得ること、そして豊かに持つことの2段階があることが上の聖句からも分かります。また、得ることには「信仰」が必要で、豊かに成長するのには「行い」が必要という二面性があります。神に対する信頼は、御言葉に従うという行いを命がけでするほどに増してくるからです。次の聖句は永遠のいのちが成長するためのことを言っています。


『神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:6〜8)


行いに関する聖句は、「信仰によって救われる」という真理に、一見矛盾するように見えるかもしれませんが、そうではありません。信仰の多面性、奥深さを表しているのです。私たちは信仰によって永遠のいのちを与えられました。神はそれをさらに豊かなものにしてほしいと願っておられます。私たちが神を愛するが故に、その御言葉に目を留め、従うことを始める時、神は罪に気づかせ、ご自身の慈愛を体験させてくださることでしょう。そういったことをくりかえし、私たちと神との関係は深く、信頼に満ちたものとなります。私たちはその豊かにされた永遠のいのちを手にして、地上での生涯を終えて神の元へ行くのです。