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2010年3月7日 礼拝メッセージ
『赦すことの意味』
(新約聖書 マタイの福音書 18:18〜35)

『まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」』(新約聖書 マタイの福音書 18:18〜20)


神は、私たちが集まって心を合わせて祈ることを望んでおられます。問題を一人で抱え込む必要はありません。問題をともに分かち合って祈る時、神もそこにおられます。教会でともに祈ることを大切にしていきましょう。


『そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。』(新約聖書 マタイの福音書 18:21〜22)


イエス様は何度でもゆるしなさいと言われます。言い換えれば、とにかくさばいてはいけないということです。ゆるすことを理解するために、私たちはさばくとはどういうことかを正しく理解しておく必要があります。厳しい言葉で人を責めることがすべて、さばくことではありません。表向きの言葉では判断できないのです。


違いは動機にあります。さばくとは、相手を引き下げ、自分を引き上げるために人を責める行為です。人は自分の価値に不安を覚えた時、手っ取り早く自分の価値を引き上げることができる「さばく」行為に手を出すのです。


同じように人を責める言葉であっても、さばいているのではなく、真心から忠告していることもあります。「忠告」は、相手を罪から引き離し、相手を引き上げるためにしているのです。また、相手を引き上げたり引き下げたりするためではなく、ただ自分の考えとの違いを整理する知的行為が「批評」です。このように、表向きは同じようでも、動機によって実体が全く異なることが分かります。


ただ、私たちは行動しようとする時、自分の動機を正確に知ることはできません。自分では正しいと思って行動するからです。しかし、その行為をした結果、自分の心に何があるかによって、自分の動機が明らかになります。神の愛によって忠告したなら、心には平安が来ますが、さばいたなら、平安が失われます。


聖書の他の箇所からも分かるとおり、さばくことは、イエス様が私たちに対して最も強調して禁止していることです。それは、さばくことが私たちのたましいにとって甚大な危険を及ぼすことだからです。別の箇所ではサタンの罠とも書かれています。さばくことがどれほど危険なことなのか、詳しく見ていきましょう。


1.心をかたくなにする

『ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:1〜5)

愛が分からなければ、神を知ることはありません。さばくことは、愛と対極の行為です。さばくほどに、私たちの心は神の愛から離れ、神の恵みを拒否します。このかたくなさを、神は時間をかけて砕こうとされます。


2.憎しみという爆弾に火をつける

さばくことによって憎しみに火がついた状態で放置すれば、爆発し、私たちは憎しみの奴隷となります。そこから自力で脱出することは困難です。脱出したいと思ったなら、神に助けを求めるしか解決はありません。


3.さばいた自分だけでなく、さばかれた相手を苦しめる

親が子の価値を引き下げると、子は生涯自分はダメだと思い、苦しみます。


『このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。

ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」』(新約聖書 マタイの福音書 18:23〜35)



私たちはイエス様にすべての借金をゆるされました。ですから、もはや人をゆるさない権利、さばく権利はないのです。人をゆるせないのは、神にゆるされたという自覚がないからです。イエス様の十字架の愛が見えていないのです。人をゆるせないという考えを変える決め手となるのは、自分の罪に気づくことです。


私たちは行いにおいて数多くの罪を犯してきました。ただ、自分はこれまで見える所は人に迷惑もかけず、悪いと言われるようなことはしていないと、罪に気づかない人もいるでしょう。クリスチャンになって神に近づくほど、罪が分かるようになります。しかし、行いにおける罪は、実は神にとってささいなことです。


神に対する最大の罪は、神によって造られたのにそれを認めてこなかったことです。子が親を認めないことほど、親にとってつらいことはないでしょう。私たちは神に対してそれをしてきたのです。私たちは造られ、生かされているのに、神を無視し、自分の力で生きているかのようにふるまってきました。しかし、神は私たちを赦してくださり、そのまま受け入れてくださいました。神に対して自分がしてきたこと、それを神が赦してくださったことを理解した時、私たちは真の意味でゆるすことを知るのです。