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2010年2月28日 礼拝メッセージ
『悔い改めについて』
(新約聖書 マタイの福音書 18章11〜17節)

『人の子は、滅んでいる者を救うために来たのです。』(新約聖書 マタイの福音書 18:11)

イエス・キリストがこの世に来られた目的は、神を信じないものが信じて救われるためであり、また、救われた者が、救いを見失わないためです。救いには悔い改めが伴います。悔い改めとは、考えを変え、軌道を修正することです。イエス様が続けて語られた中に、神が私たちに悔い改めを働きかけられる様子が示されています。


『あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。』(新約聖書 マタイの福音書 18:12〜14)


羊飼いが迷い出た羊を探しに行くように、私たちが間違った道を行く時、神は連れ戻そうとされます。私たちは自分が間違っていると分かったとしても、かたくなな心が悔い改めを妨げます。悔い改めには神の働きかけが必要なのです。神は御言葉や、私たちに与えた良心や、人を通して、私たちに罪を示し、悔い改めを促されます。その時に私たちが素直に応答し、罪を認め、神の前に謝るなら、ゆるされ、神との関係が深まります。そのように悔い改めが行われれば良いのですが、神と自分との間でそれができない場合(そういったことは稀ですが)、教会戒規が適用されます。


『また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。』(新約聖書 マタイの福音書 18:15〜17)


教会戒規は上の御言葉のように、人を通して段階的に罪を指摘し、悔い改めへと導く方法です。教会戒規が必要なのは、罪を犯している本人のためもありますが、その罪を放置すれば、教会全体にダメージを与えるからです。教会戒規の対象となる罪は、道徳的な罪、裁き合う罪、そして不従順の罪です。教会における不従順の罪とは、主任牧師の聖書解釈に従わないことです。それが分派を生み出し、教会を混乱させるからです。


教会戒規が行われることは、何か怖いイメージがあるかもしれませんが、神の目的はその人が悔い改めて、教会が守られることです。愛とは、見て見ぬふりをすることではないからです。人が間違っていれば、愛をもって責めることが必要な時もあります。その人に聞く耳があれば、その人は罪に気づき、責められたことにも感謝するのです。


教会から罪を指摘されても悔い改めない場合、その人は除名されることになりますが、除名は罰を与えることではなく、互いに悲しみを覚えることによって、その人が悔い改めへと導かれるための最終的な愛の手段です。もしその人が悔い改めたなら、神はその人をゆるし、教会もその人を受け入れ、交わりが回復するのです。


『「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 3:13〜15)


人は不完全なので、罪を犯したくないと思っていても、どこかで犯してしまいます。問題は犯してしまったということではなく、その罪を悔い改めないかたくなな心です。神はいつでも私たちが考えを変えて悔い改め、神に近づくことを望んでおられます。それこそが最高の恵みだからです。


さて、私たちの間違った考え方、その最たるものは、神からの義ではなく、自分で義を得ようとする考え方です。アダムとエバが罪を犯して以来、人は神から切り離された状態でこの世に生まれ、ほんとうはそのままで神に価値ある者として造られているのに、それがわからず、何をするにも自分の価値を求めて生きるようになりました。人から賞賛を得る、愛されることで、自分に価値があると判断するので、人は次にあげるいくつかのパターンによって、賞賛を得たり、愛されることを求めたりします。


1.熱心に働く

富や権力を得ると必ず賞賛されます。ですから、より熱心に働き、成功を収めることで賞賛を得て、自分の価値としようとします。しかし、そのうちに仕事に管理されるようになり、仕事をしないことが罪責感となります。そのため、家族や友達と余暇を楽しむことができなかったり、失敗や定年後を恐れたり、同僚が競争相手、敵対者と映るようになります。結果、恐れに支配され、人との関係を壊します。


2.容姿を美しくする

容姿で愛されることを期待し、自信を得ようとします。それは、そのまま容姿が損なわれる事への不安となり、人を愛する余裕がなくなり、自分自身を省みる余裕もなくなり、関係を壊します。


3.他人を批判する

他人を批判して引き下げれば、自分が上がり、価値があるかのように見せることができます。しかし、それは自分の価値に不安を持っている表れです。その不安から他人を批判すればするほど、ますます不安になり、孤独になっていくのです。


4.自分を批判する

自分を批判すれば、謙虚な人に見えるので、人から謙虚な人だと賞賛されることを期待します。しかし、自分を批判するのは真の謙遜ではなく、自分は謙遜だから偉いと思い込む傲慢の表れです。自己中心な生き方となり、孤独になります。


5.善人であろうとする

善良に生きることで自分の価値を証明しようとします。富や権力、知性で賞賛が得られないのなら、道徳的に良い行いを頑張ることで、他者より立派に見られることを期待します。そのため、絶えず周りの目を気にし、不安になります。周りの人に対して良い行いをしても、それは自分の価値を証明するために利用しているだけで、周りの人に関心を抱いているわけではなく、周りの人が示す感謝に関心があるのです。心は人から離れ、関係を壊していきます。


以上のように、人は自分のできる方法で人から賞賛を受け、自分の価値を見出すために生きています。しかし、どの方法にせよ、結果はみな同じです。自分の価値に過度にうぬぼれるか、過度に絶望するかのどちらかです。どちらにしても、常に不安がつきまとい、自らを追い詰めます。自らの価値を自らの力で得ようとすることは、不可能なのです。

では、神が与える価値=義を得るためにはどうしたらよいのでしょうか。


1.本当の自分でない者になるのはやめる

私たちはみな違う目的を持って造られているので、みな違います。まず、ありのままの自分を受け入れましょう。神は私たちをそのままで受け入れてくださっているのです。


2.神の愛を買おうとしない

なぜなら、あなたはすでに神に愛されているからです。神はあなたの謙遜、業績、容貌などといったことには何の興味もありません。あなたそのものを愛しておられるのです。私たちは値なしに義と認められた(ローマ3章23,24節)とあるとおり、神は何の条件もつけていません。

3.神の愛を受ける

信仰とは、自分がすでに愛されていることを承認することです。


『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 1:3〜6)


人は最初から自力で義を得ることがないよう造られています。神を信じて義とされ、より愛されるためではなく、初めから愛されていることに安心して、神を信頼して御言葉を行うのがベストの状態です。人との関係は、信頼によってうまくいきます。同様に、神との関係も、愛されていることを認め、信頼することで深まっていくのです。