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2010年2月21日 礼拝メッセージ
『つまずき』
(新約聖書 マタイの福音書 17章22〜18章10節)

『また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」彼は「納めます。」と言って、家にはいると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」ペテロが「ほかの人たちからです。」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」』(新約聖書 マタイの福音書 17:24〜27)


イエス様は、彼らにつまずきを与えないために、納入金を納めなさいと云われました。つまずかせるとは、罪を犯させることを意味します。私たちの行いは、救いとは関係ありません。救いの条件は、信じることだけです。しかし、世の中の人は、私たちの行いによって、私たちの信じる神も判断します。ですから、私たちの行いによって、人々が神を批判して罪を犯すことがないように、気を遣う必要があります。また、世の中のルールをおろそかにすれば、いずれ神のルールをもおろそかにするようになってしまいます。自分自身をつまずきから守るためにも、世の中のルールを守ることが必要です。


『(そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。』(新約聖書 マタイの福音書 18:1〜5)


天の御国では誰が一番偉いのかと問う弟子たちに、イエス様は、悔い改めて子どものようになるよう言われました。悔い改める、つまり思いを変えることが必要なのです。当時のユダヤ社会では、子どもは無力で価値のない物と認識されていました。子どものようになるとは、自分の無力さを知り、自分を高くしないことです。


己を知ると、神の前に自分の行いは何の価値もないことを悟ります。また、自分の弱さ、罪深さを知るほど、世の中で弱いと言われる人を大切にすることができます。私たちが変えるべき思いとは、行いに価値がないことを知ることなのです。


『(しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
(新約聖書 マタイの福音書 18:6〜10)



実は、罪は犯すものではなく、犯させられるものです。自分自身をつまずかせるものがあることを知り、それと戦うことをここで言っているのです。人には基本的欲求があります。体には睡眠欲、食欲、性欲があり、この欲求自体は罪ではありませんが、この欲求に支配されると罪に発展する可能性があります。その鍵となるのは心の欲求をどのように満たすかということです。

誰もが持つ心の欲求、それは愛されたいという欲求です。愛されたいという欲求が満たされないと、体の欲求に支配されやすく、罪に結びつきやすいのです。愛されることを人に求めると、自分の行いによって自分の価値を高めようとするので、自分と他人を比較し、嫉妬や憎しみが生まれ、それがつまずきとなります。


それに対し、神に愛されることを求めると、神の愛によって満足し、心を制御することができるのです。神に愛されることを求めるとは、どういうことでしょうか。


『愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第二 6節)


神との関係を深めるには、神のことばに従うことが欠かせません。なぜなら、御言葉に従うと、自分の罪深さを知り、それを悔い改めてゆるされることを通して、神の愛を体験するからです。


『・・・彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:8)


『その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。』(新約聖書 ペテロの手紙第二 1:4〜10)

『兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:10)


これらの聖句から、御言葉に従うことの必要性、中でも特に人をさばかないで愛することの必要性が分かります。愛されたいという欲求は神に向けるべきであり、神によって私たちの心は十分満足するようにつくられています。そして、私たちはもはや人から愛してもらうのではなく、人は愛する対象であると神は教えています。人を行いで見ないで愛することが、私たちを悪から守り、神に近づけるのです。