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2010年2月7日 礼拝メッセージ
『下がれ、サタン』
(新約聖書 マタイの福音書 16章21〜28節)

『その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」』(新約聖書 マタイの福音書 16:21〜23)


イエス様をいさめたペテロに対し、なぜ、イエス様は『サタン』とまで言われたのでしょうか。ペテロは、自分ではイエス様のことを思って、忠告申し上げたつもりだったかもしれません。しかし、この言葉の裏には、「そんなことを言ったら、人々から受け入れられない」と、人の反応を気にする思いがあります。イエス様が続けて言われたように、ペテロが神のことではなく人のことを思って、すなわち人の物差しで考え、行動し、結果として神の働きを理解できず、妨げたからです。イエス様が『サタン』と呼ばれたのは、まさに人の物差しのことを言われたのです。


人からよく思われたい、愛されたいという基準で物事を見るのが人の物差しですが、これまで学んできたように、その物差しは神の物差しとは全くずれていて、間違っています。この物差しを使うと、人は次の状態になります。


1.自分を失う

子が親の期待(自分の望みと違う)に応えようと、よい子を演じるのもそうです。愛されるために、周りの期待に自分をあわせることで、自分を失う状態です。


2.真実を失う

人に愛されることを求める時、神に心が向かず、神が見えなくなります。


3.平安を失う

よく思われるために自分を隠すため、心にはゴミがたまり、つらくなります。


『それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」』(新約聖書 マタイの福音書 16:24〜28)


人から愛され、すべてを手にしたとしても、その人はまことのいのちを失います。イエス様は、「わたしについてきなさい」と言われます。それは具体的にはどのようなことでしょうか。


1.自分を捨て

人から愛されたいという物差しを捨てることです。


2.自分の十字架を背負い

十字架は死を意味します。死を覚悟すると言うことです。


3.ついてきなさい

御言葉に従うことです。


ここでイエス様は、信仰に生きる生き方を示しています。それは覚悟が必要です。キリスト教ほど激しい弾圧を受けた集団はありません。日本も例外ではありませんでした。現在の日本では厳しい迫害はないかもしれませんが、自分がクリスチャンであると知らせることには、多少の勇気が必要な場面があるでしょう。


また、信仰に生きるとは、迫害に際するだけではなく、自分の考え方を聖書の教えに近づけようとする生き方です。私たちは、間違った物差しを長年使ってきているので、神はいろいろな場面で、神の物差しに修正する機会を備えておられます。


イエス様は、行いに応じて報いがあるとも語っておられます。どのような報いかは分かりませんが、人から評価されるためではなく、天に宝を蓄えるようにしていきましょう。いずれにしても、神のために受ける苦しみには、すばらしい報いがあります。


『なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:10)