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2010年1月31日 礼拝メッセージ
『信仰は神から』
(新約聖書 マタイの福音書 16章1〜20節)

『パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。』(新約聖書 マタイの福音書 16:1〜4)


パリサイ人たちは、イエス様にしるしを見せてくれと要求します。そうすれば信じてやってもいいという、神の上に立った態度です。人にはどこか、しるしを見れば信じようという思いがあります。だから、世の中の宗教はしるしでアピールしようとするのです。しかし、しるしを求める人は、神と人との関係を全く理解していません。人はみな神の前に罪を犯しており、神にゆるしを乞う立場なのです。最大の罪は、神に造られた存在でありながら、それを否定して生きてきたことです。それが神に対して最も傲慢な態度です。この罪に気付き、神にゆるしを求めるなら、神と正しい関係に入ります。


『弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」すると、彼らは、「これは私たちがパンを持って来なかったからだ。」と言って、議論を始めた。イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。まだわからないのですか。覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。』(新約聖書 マタイの福音書 16:5〜12)


ほんのわずかでも間違った教えを受け入れれば、教会は崩壊してしまいます。イエス様が警告したパリサイ人たちの教えは、救いという根本から間違っていました。私たちを間違った教えから守るのは、自分の教会の牧師先生の聖書解釈に従うことです。それが聖書の言う権威に従うということです。牧師先生の言うことに何でも従えば、権威に従っているのではありません。牧師先生の聖書解釈に従う、その一点が最重要なのです。それが失われれば、たちまち教会は崩壊してしまうのです。


私たちは基本的に神と考え方がずれています。だから、毎週のメッセージを通して、神の物差しで聖書を読むことを学び、軌道修正することが必要なのです。聖書に「互いに愛し合いなさい」とありますが、神の言われる愛と人が愛と思っていることは、全く違います。人の愛は、見返りを期待します。それは行い(人の価値を行いで判断する)の物差しで人を見ているからです。そこにはねたみ、さばきあいが起こります。それは愛ではありません。そのように、物差しが間違っていれば、聖書を読んでも、神が言われる意味とは全く違う受け取り方をしてしまうのです。それは自分の生き方に聖書を利用していることになります。


私たちは、むしろ聖書の物差しによって、自分の生き方を変えていくべきです。聖書の物差しは、人の行いを評価しません。神の関心はいつでも人の信仰にあります。ですから、人の行いではなく、神の言葉に心を向け、神との関係の中で物事を見ましょう。それが問題の解決です。


『さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。』(新約聖書 マタイの福音書 16:13〜20)


イエス様はご自分のことを「人の子」と呼ばれました。当時の人々は、「人の子」という言葉から、メシヤ(救い主)的な意味をとらえていました。ただ、明確に「救い主」ととらえられる言葉ではなく、ファジーな部分があったので、探し求める人には、イエス様が救い主だとわかるようになっていました。その証拠に、人々はイエス様のことを預言者とか、誰かの生まれかわりだとか、そういったふうに考えていました。しかし、ペテロはイエス様が神だと告白し、イエス様は、それは神が教えたのだと言われました。


信仰は神が与えるのです。私たちが神を信じることができたのも、神が信仰を下さったからです。頭が良かったからでも、行いが良かったからでもありません。このことから次の3つのことを学ぶことができます。



1.傲慢になってはならない

神を信じることができたのは、自分の手柄ではなく、神から信仰をいただいた結果です。ですから、神に感謝しましょう。


2.神が信仰を下さるのは、罪に気付き、神に助けを求める者

私たちはみな、神抜きに生きてきました。その傲慢さに気づく人に、神は信仰を下さるのです。神がおられることは自然界を見れば明らかだと聖書に書いてあります。信じなかったことについて、申し開きをする余地はないのです。


3.信仰は成長する

『ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」』(新約聖書 マタイの福音書 13:18〜23)

ここに、信仰の成長過程が書かれています。信仰の成長を妨げるもの、それはこの世の物差しです。問題が起きた時、この世の物差しでは解決できなくても、聖書の言葉を信じるなら、解決の方向が見えてきます。聖書の物差しで見るなら、信仰が成長していきます。