ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2010年1月24日 礼拝メッセージ
『カナン人の女』
(新約聖書 マタイの福音書 15章21〜39節)

今回出てくる2つのエピソードは信仰とはどういうものかを私たちに教えます。私たちが、神に祈り求めるとき、神が何を見ておられるのか次のエピソードを通してみていきましょう。


『それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ち退かれた。すると、その地方のカナン人の女が出てきて、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについてくるのです。」と言ってイエスに願った。
しかし、イエスは答えて、「わたしはイスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。すると、イエスは答えて、「子供たちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」その時、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。』(新約聖書 マタイの福音書 15:21〜28)




娘の癒しを求める女性に対し、イエス様は最初、何も答えてくれません。私たちが何かを祈り求めるときも、神が沈黙しておられるように感じるときがあるでしょう。それは、イエス様がこの女性に対してされたように、本気で求めているのかを確かめておられるのです。すぐに答えが来ないからと言ってあきらめてしまうのは、本気とは言えません。この女性は、あきらめませんでした。


イエス様が重い口を開かれ、語られた言葉は、意地悪な言葉でした。それでも女性はあきらめず、求め続けますが、イエス様はさらに追い打ちをかけるようにきつい言葉を語られます。それでも女性は食い下がって、求めました。そしてついにイエス様は彼女の信仰をほめ、願いを聞き入れます。


ここではっきりとわかるのは、イエス様は彼女をいじめたくて厳しい態度をとっていたのではなく、信仰を見るためにテストしていたということです。女性は見事、テストに合格しました。神は私たちに対しても同じように、信仰を試されます。あきらめずに求め続けるかどうか、見ておられるのです。

さらに次の個所ではイエス様が弟子たちの信仰を見るために、問題を投げかけられます。


『それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。すると、大勢の人の群れが、足なえ、不具者、盲人、おしの人、そのほかたくさんの人をみもとに連れてきた。そして、彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをおいやしになった。・・・
イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間も私と一緒にいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」そこで弟子たちは言った。「このへんぴなところで、こんな大勢の人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手に入るでしょう。」すると、イエスは彼らに言われた。「どれぐらいパンがありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」
すると、イエスは群衆に、地面にすわるように命じられた。それから、7つのパンと魚とをとり、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りをとり集めると、七つのかごにいっぱいにあった。食べた者は、女と子供を除いて、男四千人であった。・・・』(新約聖書 マタイの福音書 15:29〜39)



以前にもよく似たエピソードがありました。イエス様が、5つのパンと2匹の魚で五千人以上の人々に食物を与えたのを弟子たちは見ていました。弟子たちが今回は、イエス様ならできると信じることができるか、イエス様は弟子たちの信仰を見るため、あえてこのような問題を投げかけられました。ここで、神がご覧になる信仰とはどういうものかを次の聖句から確認しておきましょう。


『信仰がなくては、神によろこばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』(新約聖書 へブル人への手紙 11:6)



信仰とは、まず大前提として、神がおられることを信じること、イエス・キリストが神であると信じることです。この信仰があれば、救われています。しかし、そこにとどまらず、さらに成長してほしいと神は願っておられます。それは、上の聖句にあるように、神を求める者には報いてくださる方であると信じるようになることです。神との関係の中で、神にゆるされればゆるされるほどに、神によって希望が見えてくるからです。

神を求める者には報いてくださる方であると信じるとは、具体的には次のことです。


1.あきらめない

見えるところは悪い状況でも、神が必ず問題を解決されると信じ続けることです。


2.心の中に結果を見る

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:1)


人は、ダメな結果を想像しがちです。しかし、信仰は、願っていることを、心の中に具体的に描き、感謝することです。