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2010年1月17日 礼拝メッセージ
『人を汚すものは何か』
(新約聖書 マタイの福音書 15章1〜20節)


『そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。神は『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言われたのです。それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」』(新約聖書 マタイの福音書 15:1〜9)


パリサイ人や律法学者たちは、イエス様の弟子たちが自分たちの教えを守らないことを批判します。それに対し、イエス様は、律法学者たちが、自分たちの教えを守るために神の教えをむなしいものにしていることを指摘します。律法学者たちは、自分では神の律法を守っていると思っていますが、その実、神の律法に人の解釈を加え、律法自体よりも解釈した教えを守ることを重視し、そうすることが神に受け入れられる立派な者であると完全に取り違えているのです。人の教えに生きるなら、神の教えは全くむなしくなってしまいます。


このように、律法学者たちは、人の物差しによって生きています。しかし、神は私たちが人の物差しを捨てて、神の物差しによって生きるように教えられます。人の物差しとは、人からほめられるための基準であり、その物差しを使うと、嫉妬や苦痛を伴います。一方、神の物差しは、神に近づくための基準となるもので、永遠のいのちと平安が伴います。


人がどちらの物差しを使っているかは、その人が何を心の食事としているかによって分かります。すなわち、人からほめられることで満足を得ているのか(肉の食事)、神のことばによって満足しているのか(御霊の食事)ということです。人からほめられることは、心地よく、おいしい食事のように感じるでしょう。しかし、それは一時のことで、すぐにまた求めなくてはなりません。その上、他の人がほめられると気になり、嫉妬を生み、苦々しい思いとなります。一方、神のことばは最初、苦く感じるかもしれません。それは、隠された罪を指摘されるからです。だからパリサイ人たちは腹を立てました。しかし、それが心に本当に必要な食べ物なのです。指摘された罪を悔い改めることで、神に近づき、平安の義の実を結ぶからです。


心の食事の違いをよく表しているのが、マルタとマリヤという姉妹がイエス様を迎えた時のエピソードです。マルタはイエス様をもてなすために忙しく立ち働いていました。ところがマリヤはイエス様の話に聞き入り、座ったまま動こうとしません。それを見たマルタは腹を立て、イエス様に訴えます。しかし、イエス様はマリヤは良いものを選んだのだから、責めてはいけないと語られました。マルタがマリヤに腹を立てたことによって、彼女がほめてもらうことを期待して奉仕していたことが分かります。それに対し、マリヤが求めていたのは、ほめられることではなく、神のことばでした。

パリサイ人たちとの会話の後、イエス様はさらに教えて言われました。


『イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」そこで、ペテロは、イエスに答えて言った。「私たちに、そのたとえを説明してください。」イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」』(新約聖書 マタイの福音書 15:10〜20)



私たちを汚すことができるのは、外から入るものではなく、私たちの内側から出てくるものです。私たちの心の中には、良い倉と悪い倉があり、何かのきっかけで悪い倉から悪い物が出てきて、それが私たちを汚すのです。私たちはそのきっかけを作った人を憎みますが、それは見当違いです。また、悪い倉があることが問題なのでもありません。それは人である限り、仕方のないことです。問題は、悪い倉から悪い物を出したことなのです。犯罪者と呼ばれる人が特別なのではありません。すべての人が、同じように悪い倉を持っているのです。


悪い倉から悪い物を出さないことで、私たちの心は守られます。そのために重要なのは、私たちの語る言葉です。私たちはつらいからつらい言葉が出てくると思うかもしれませんが、本当は、つらい言葉が出るからつらくなるのです。思いをコントロールするのは難しいことですが、言葉をコントロールすることで、状況は良くなります。言葉を舵取りするために聖書の中から、次の3つのことを学びましょう。


1.さばかない

人の欠点を見ると、さばきたくなりますが、そこでさばく言葉を語れば、悪い倉から悪い物が一気にあふれ、自分に返ってきます。さばくことは悪い倉を開く蛇口です。それを開かないようにしましょう。


2.すべてを感謝する

自分の置かれている状況、出来事、一つ一つ感謝していくことで、良い倉から良い物が出てくるようになります。そうすると、自然に悪い倉からは出なくなってくる物です。今は意味が分からないことでも、すべては神の手の中にあるので、感謝する内に、神の思いが見えてくる時が来るでしょう。


3.信仰を語る

見える状況にかかわらず、神の約束がなることを信じますと祈り、語りましょう。神様は私たちが語る言葉に注目しておられます。