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2010年1月10日 礼拝メッセージ
『湖の上を歩くイエス様』
(新約聖書 マタイの福音書 14章22〜36節)


『群衆を帰したあとで、(イエス様は)祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。』(新約聖書 マタイの福音書 14:23)


イエス様が祈られたというと、不思議な感じがするかもしれません。しかし、神は父なる神、子なる神(イエス様)、聖霊のお三方で一つ(三位一体)で、互いに愛の交わりの関係があります。ですから、イエス様が父なる神と聖霊様と交わる(祈る)ことは当然なのです。さらに神は私たちをその愛の交わりの中に引き入れて下さいます。人は、神との交わりがあってはじめて生き生きと生きられるようにつくられているからです。


『しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。』(新約聖書 マタイの福音書 14:24〜27)


弟子たちは、水の上を歩いてくるイエス様を見て、幽霊だと言って震え上がります。弟子たちに限らず、人は、自分の理解を超えるとパニックを起こし、無理に自分の限られた知識の中で合理性がつく処理をしてしまいます。これでは問題解決には至りません。


本当は私たちは何も知らないのに、それを隠してしまうことに問題があります。そもそも人はどこから来てどこへ行くのか、今どこにいるのか、物事を考える上で基本となる自分の立ち位置さえも分からないのです。何も知らないのに知っているふりをするのは愚かなことだと、かのソクラテスは言いました。


私たちは理解を超えた出来事に出会った時、御言葉が理解できない時、神の前に素直に分からないと言うべきです。そうすれば神が教えて下さるからです。私たちは出来事によって恐れたり不安になるのではありません。私たちが出来事をどう解釈したかによって、畏れや不安が生じるのです。弟子たちが恐れたのは、イエス様を見たからではなく、イエス様を幽霊だと解釈したからです。


ペテロは、人々から一番弟子と認識されていましたが、それは出来が良かったからではありません。彼は分からないことを認め、何でもイエス様に聞いて、そのことでイエス様への理解が深まっていったからです。私たちも、分からない時は無理に処理するのをやめ、神に祈りましょう。


イエス様の奇蹟を数多く見てきたにも関わらず、パニックを起こしている弟子たちに、イエス様はしかりつけるのではなく、「しっかりしなさい」と励まされました。神は私たちに対して上から目線で接するのではなく、私たちのレベルまで降りてきて下さる方です。私たちを突き放すことなく、とことん付き合って下さることは、なんとありがたいことでしょうか。


『すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」』(新約聖書 マタイの福音書 14:28〜31)


まだ半信半疑のペテロに、イエス様は付き合って下さり、ペテロはイエス様に向かって水の上を歩き出しました。しかし、イエス様から目をそらし、風を見て恐れが来て沈みかけます。私たちの心に恐れや不安がある時、それは神から目がそれた時、つまり調子が悪い時のサインです。神のことばではなく、人の言葉や状況を見て、そこにとどまっているから問題解決に至らないのです。問題の解決の鍵は、神のことばに踏みとどまることです。神のことばに立って、問題の解決を祈り求めましょう。