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2010年1月3日 礼拝メッセージ
『5つのパンと2匹の魚』
(新約聖書 マタイの福音書 14章1〜21節)

『そのころ、国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、侍従たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、牢に入れたのであった。それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です。」と言い張ったからである。ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである。たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。』(新約聖書 マタイの福音書 14:1〜13)


バプテスマのヨハネはイエス様が来られる前、人々に悔い改めを勧めた人物です。ヨハネから不倫の罪を指摘されたヘロデとヘロデヤは、彼に恨みを持ち、このように残酷なことをしました。ここから学べることはたくさんありますが、その中からいくつかあげてみましょう。


1.人は罪を指摘されると怒る

私たちは自分の非を指摘された時、怒ったり、言い訳をしたりするでしょう。それは罪を認めたくないからです。その裏には人からよく思われたいという思いがあるからです。しかし、私たちは罪を指摘されたり、気づいた時、それを感謝して悔い改めるべきです。悔い改める時にはじめて私たちは神の愛が分かるからです。私たちはみな罪を持っています。罪がないという人は自覚していないだけです。自分の罪が分かり、悔い改めるなら、私たちは神の愛に触れます。それが神の恵みです。


2.人の罪を見てさばくのではなく、憐れんで祈る

ヨハネに対して、よくこのような残酷なことができると思うでしょう。しかし、歴史を見れば、私たちと何ら変わらない普通の人が戦争で残酷なことをたくさん行ってきました。人は同じ状況に置かれたら、同じ罪を犯しうるのです。もし、私たちが飢えて食べ物やお金がなくなれば、きっと盗みをするでしょう。自分も同じ罪人だと分かれば、罪を犯した人をたださばくのではなく、その人のために祈ることができます。神はそれを望んでおられます。


このあと、イエス様は2匹の魚と5つのパンから男性だけで5千人もの群衆に十分に食物を与えました。(14〜21節)同じエピソードをヨハネの福音書で見てみると、イエス様の思いがよく見えます。


『イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:5〜13)


1.神は私たちの信仰を試される

イエス様は弟子を試したと書かれています。神と私たちの物差しは違います。人は行いのめがねでものを見ますが、神は信仰のめがねで見ておられます。信仰は神のことばをどこまで信頼するかです。ですから神のことばと自分の考えの違いを悔い改めるのは信仰の第一歩です。神は私たちがほんとうに御言葉を信じているかを見たくて、試されます。


2.信仰は一歩踏み出す勇気が必要

弟子たちは最初から無理だと何もしませんでした。しかし、少年はイエス様の言葉を聞いて、自分なりに食物を集めて差し出しました。その時、イエス様は奇蹟を起こされました。信仰には一歩踏み出す勇気が必要なのです。ばかばかしいと思うようなことかもしれません。しかし、御言葉にあるから神が必ず導いてくださると、勇気を出して踏み出すのを、神はご覧になりたいのです。


3.信仰は神に委ねること

神は聖書の中で何度も委ねなさいと言われます。私たちは自分にとって大切だと思って何かを握りしめたり、心配しているせいで、逆につらい思いをしていることがよくあります。手放して、神に委ねれば楽になるのに、なかなかそうできません。しかし、自分のすべきことをやってしまったら、あとは委ねれば、私たちの想像をはるかに越えて神様は私たちを助けて導いて下さいます。